長短経 / 水火
何以言之?昔韓信定臨淄、走齊王田廣、楚使龍且來救齊。齊王廣、龍且并軍與信合戰〔人或説龍且曰、「漢兵逺鬬冦戰、其鋒不可當、齊楚自居其地戰、兵易敗散。不如深壁、令齊王使其信臣、招所亡城、城聞其王在、楚來救、必反漢。漢兵二千里客居、齊城皆反之、其勢無所得食、可無戰而降也。」龍且曰、「吾平生知韓信為人、易與耳。且夫不戰而降之、吾何功?」遂戰、敗。吾聞、「古之所謂善戰者勝、易勝者敗。故善者之勝也、無知名、無勇功。故其戰勝不武、不武者、其所錯勝、勝已敗者也。」龍且不用客之計、欲求赫赫之功、昧矣。〕夾濰〔音唯〕水陣、韓信乃夜令人為萬餘囊、盛沙壅水上流、引軍半渡、擊龍且、佯不勝、還走。龍且果喜曰、「固知信怯也。」遂追信渡水、信使決壅囊、水大至。龍且軍大半不得渡、即急擊之、殺龍且。龍且水軍東散走。此反半渡之勢。
新字:何以言之?昔韓信定臨淄、走斉王田広、楚使竜且来救斉。斉王広、竜且并軍与信合戦〔人或説竜且曰、「漢兵遠闘寇戦、其鋒不可当、斉楚自居其地戦、兵易敗散。不如深壁、令斉王使其信臣、招所亡城、城聞其王在、楚来救、必反漢。漢兵二千里客居、斉城皆反之、其勢無所得食、可無戦而降也。」竜且曰、「吾平生知韓信為人、易与耳。且夫不戦而降之、吾何功?」遂戦、敗。吾聞、「古之所謂善戦者勝、易勝者敗。故善者之勝也、無知名、無勇功。故其戦勝不武、不武者、其所錯勝、勝已敗者也。」竜且不用客之計、欲求赫赫之功、昧矣。〕夾濰〔音唯〕水陣、韓信乃夜令人為万余嚢、盛沙壅水上流、引軍半渡、撃竜且、佯不勝、還走。竜且果喜曰、「固知信怯也。」遂追信渡水、信使決壅嚢、水大至。竜且軍大半不得渡、即急撃之、殺竜且。竜且水軍東散走。此反半渡之勢。
書き下し
何を以て之を言う。昔、韓信臨淄を定め、斉王田広を走らす。楚、龍且をして来たりて斉を救わしむ。斉王広・龍且、軍を并せて信と合戦す〔人或いは龍且に説きて曰く「漢兵は遠く闘い寇戦す。其の鋒当たるべからず。斉楚は自ら其の地に居りて戦う。兵散敗し易し。深く壁し、斉王をして其の信臣を使わして、亡う所の城を招かしむるに如かず。城は其の王在り、楚来たりて救うと聞かば、必ず漢に反せん。漢兵は二千里に客居し、斉の城皆之に反せば、其の勢い食を得る所無く、戦わずして降すべきなり」と。龍且曰く「吾平生韓信の人と為りを知る。与し易きのみ。且つ夫れ戦わずして之を降さば、吾何の功かあらん」と。遂に戦いて、敗る。吾聞く「古の所謂善く戦う者は勝ち、勝ち易き者は敗る。故に善き者の勝つや、智名無く、勇功無し。故に其の戦い勝ちて武ならず。武ならざる者は、其の錯く所勝ち、已に敗るる者に勝つなり」と。龍且は客の計を用いずして、赫赫の功を求めんと欲す。昧し。〕濰水を夾みて陣す。韓信乃ち夜人をして万余の囊を為り、沙を盛りて水の上流を壅がしめ、軍を引きて半ば渡り、龍且を撃ち、佯りて勝たずして、還り走る。龍且果たして喜びて曰く「固より信の怯なるを知る」と。遂に信を追いて水を渡る。信、壅囊を決せしむ。水大いに至る。龍且の軍大半渡るを得ず。即ち急に之を撃ち、龍且を殺す。龍且の水軍東に散走す。此れ反りて半渡の勢いなり。
現代語訳
何によってそう言うか。昔、韓信は臨淄を平定し、斉王田広を敗走させた。楚は龍且を送って斉を救わせた。斉王田広と龍且は軍を合わせて韓信と戦った〔ある人が龍且に説いた。「漢の兵は遠くから来て必死に戦うので、その鋭さには当たれません。斉と楚は自分の土地で戦うので、兵が逃げ散りやすい。砦を固く守り、斉王に信頼する臣を遣わさせて、失った城に呼びかけさせるのがよい。城は王が健在で楚が救援に来たと聞けば、必ず漢に背きます。漢の兵は二千里も離れた地に仮住まいし、斉の城が皆背けば食糧を得られず、戦わずに降伏させられます」。龍且は言った。「私は日ごろから韓信の人となりを知っている。たやすい相手だ。それに戦わずに降伏させたら、私に何の手柄があろう」。そして戦って敗れた。私はこう聞いている。「昔のいわゆる戦上手は、勝つべくして勝ち、たやすく勝とうとする者は敗れる。だから上手な者の勝ちには知恵の名声も勇敢な手柄もない。その勝ちは派手ではなく、すでに負けている相手に勝つのである」。龍且は客の計を用いず、輝かしい手柄を求めた。愚かである。〕両軍は濰水を挟んで陣を敷いた。韓信は夜のうちに一万余りの袋を作らせ、砂を詰めて上流をせき止めさせた。軍を率いて半分渡り、龍且を撃ってから、勝てないふりをして逃げ帰った。龍且は果たして喜んで「もともと韓信が臆病だと知っていた」と言い、韓信を追って川を渡った。韓信は袋の堰を切らせた。水がどっと押し寄せ、龍且の軍の大半は渡れなかった。そこで急いで撃ち、龍且を殺した。龍且の軍は東へ散り散りに逃げた。これが、半渡の勢いを逆に用いたものである。
解説

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『智囊』詭道・韓信信、已に斉の臨淄を襲い破り、遂に東のかた斉王を追う。楚、龍且をして兵を将いて斉を救わしむ。或るひと龍且に説きて曰く、「漢兵は遠く闘い窮戦す。其の鋒当たるべからず。斉・楚は自ら其の地に居りて戦えば、兵は敗れ散じ易し。深壁するに如かず。斉王をして其の信臣を遣わして亡びたる城を招かしめよ。亡びたる城は其の王の在るを聞き、楚の又救いに来たるを聞かば、必ず漢に反かん。漢兵、二千里にして斉に居り、斉の城皆これに反かば、其の勢い得て食するところ無く、戦わずして降すべきなり」と。龍且、韓信を易与と軽んじ、遂に戦う。信と濰水を夾みて陣す。信乃ち夜に人をして万余の囊を為り、沙を盛り、水の上流を壅がしむ。兵を引き半ば渡りて龍且を擊ち、佯りて勝たず、還り走る。龍且、果たして喜びて曰く、「固より信の怯なるを知れり」と。遂に信を追い、水を渡る。信、人をして囊を決せしむ。水大いに至り、龍且の軍の大半は渡るを得ず。即ち急に擊ち、龍且を殺す。〔評〕左車の謀をして行わしめば、信は必ず趙に志を得ざらん。或人の説をして用いしめば、信は必ず龍且に志を得ざらん。繞朝曰く、「子、秦に人無しと謂う無かれ。吾が謀の適々用いられざるのみ」と。士は固より遇と不遇とあるかな。
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史記 淮陰侯列伝且つ酈生は一士なり。軾に伏して三寸の舌を掉ひ、斉の七十余城を下す。将軍は数万の衆を将ゐ、歳余にして乃ち趙の五十余を下す。将と為ること数歳にして、反りて一豎儒の功に如かざるか」と。是に於て信之を然りとし、其の計に従ひ、遂に河を渡る。斉已に酈生に聴き、即ち留めて縦酒し、漢に備ふる守御を罷む。信因りて斉の歴下の軍を襲ひ、遂に臨菑に至る。斉王田広酈生を以て己を売れりとし、乃ち之を亨し、而して高密に走り、使をして楚に之きて救ひを請はしむ。韓信已に臨菑を定め、遂に東のかた広を追ひて高密の西に至る。楚も亦龍且をして将たらしめ、二十万と号して、斉を救はしむ。斉王広・龍且軍を并せて信と戦ふも、未だ合せず。人或ひと龍且に説きて曰く、「漢兵は遠く闘ひ窮まりて戦ふ。其の鋒当たるべからず。斉・楚は自ら其の地に居りて戦ふ。兵敗散し易し。如かず壁を深くし、斉王をして其の信臣をして亡ぐる所の城を招かしめんには。亡城其の王の在り、楚の来りて救ふを聞かば、必ず漢に反かん。漢兵は二千里の客居なり。斉の城皆之に反かば、其の勢ひ食を得る所無く、戦ふこと無くして降すべきなり」と。龍且曰く、「吾平生韓信の人と為りを知る。与し易きのみ。且つ夫れ斉を救ひて戦はずして之を降さば、吾何の功かあらん。今戦ひて之に勝たば、斉の半ば得べし。何為れぞ止めん」と。遂に戦ひ、信と濰水を夾みて陳す。韓信乃ち夜人をして万余の囊を為らしめ、満たすに沙を盛り、水の上流を壅ぎ、軍を引きて半ば渡り、龍且を撃ち、詳りて勝たずして、還り走る。龍且果たして喜びて曰く、「固より信の怯なるを知れり」と。遂に信を追ひて水を渡る。信人をして壅囊を決せしむ。水大いに至る。龍且の軍大半渡るを得ず。即ち急に撃ちて、龍且を殺す。龍且の水東の軍散走し、斉王広亡げ去る。信遂に北ぐるを追ひて城陽に至り、皆楚の卒を虜にす。漢の四年、遂に皆降りて斉を平らぐ。人をして漢王に言はしめて曰く、「斉は偽詐多変、反覆の国なり。南は楚に辺す。仮王と為りて以て之を鎮めずんば、其の勢ひ定まらず。
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『長短経』水火〔吾兵法を聞く、水を絶てば、必ず水に遠ざかり、敵をして半ば渡らしめて之を撃てば、利あり、と。韓信は半ば渡り、軍佯りて害地に入り、龍且をして之を撃たしめ、然る後に壅水を決す。此れ所謂「利に雑えて務め伸ぶべく、害に雑えて患い解くべし」なり。皆兵を反して兵法を用う。微なるかな、微なるかな。〕盧綰、彭越を佐けて攻め、梁の地十余城を下す。項羽之を聞き、其の大司馬曹咎に謂いて曰く「謹んで成皋を守れ。即し漢戦いを挑むとも、慎みて与に戦うこと勿かれ」と。漢果たして楚の軍に挑む。楚の軍出でず。人をして之を辱めしむ〔孫子曰く、廉潔は、辱むべきなり〕。大司馬怒り、汜〔音は凡〕水を渡る。卒半ば渡る。漢撃ちて、大いに之を破る。此れ戦わんと欲して水に附くの勢いなり。
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『長短経』利害孫子曰く「之を死地に陥れて而る後に生き、之を亡地に投じて而る後に存す」と。又た曰く「利に雑えて務め伸ぶべく、害に雑えて患い解くべし」と。何を以て之を明らかにせん。漢の将韓信、趙を攻む。趙は兵を井陘口に盛んにす。信乃ち兵を引きて未だ井陘口に至らざること三十里にして、止まり舎す。夜半に伝え発し、軽騎二千人を選び、一赤幟を持たしめ、間道より山に萆れて〔音は蔽〕趙の軍を望見せしむ。之を誡めて曰く「趙は吾が走るを見ば、必ず壁を空しくして吾を逐わん。若疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜きて、漢の赤幟を立てよ」と。其の裨将をして飱を伝えしめて曰く「今日趙を破りて会食せん」と。諸将皆信ずる莫く、佯り応じて曰く「諾」と。信、軍吏に謂いて曰く「趙は已に先に便地に拠りて壁を為す。且つ彼は未だ我が大将の旗鼓を見ずんば、未だ肯えて前行を撃たず。吾が阻険に至りて還らんことを恐るればなり」と。信乃ち万人をして出でて、背水の陣を行わしむ。趙の軍望見して、大いに之を笑う。〔太公曰く「智衆と同じきは、人の師に非ざるなり。伎衆と同じきは、国士に非ざるなり。動くこと不意より神なるは莫く、勝つこと不識より大なるは莫し」と。趙の軍をして韓信の勢いを識らしめば、安んぞ敗るるを得んや。故に之を笑いて敗るるなり。〕
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『長短経』利害平旦、信は大将の旗鼓を建て、鼓行して井陘口を出づ。趙、壁を開きて之を攻撃し、大いに戦うこと良久し。是に於て信と張耳とは旗鼓を棄て、水上に走る。水上の軍、壁を開きて之を入れ、復た疾く戦う。趙は壁を空しくして漢の旗鼓を争い、韓信・張耳を逐う。韓信・張耳已に水上の軍に入る。軍皆殊死して戦い、敗るべからず。信の出だす所の奇兵二千騎、共に趙の壁を空しくして利を逐うを候い、則ち馳せて趙の壁に入り、皆趙の幟を抜き、漢の赤幟二千を立つ。趙の軍、信等を得ずして、還りて壁に帰らんと欲するに、壁皆漢の赤幟なり。而して大いに驚き〔太公曰く「夫れ両陣の間に、俾陣を出だす。卒を縦にし行を乱す者は、変を為す所以なり」と。此の謂いなり〕、以為えらく漢は皆已に趙の主将を得たりと。遂に乱れて遁走す。趙の将撃ちて之を斬ると雖も、禁ずること能わざるなり〔孫子曰く「治を以て乱を待ち、静を以て譁を待つ。此れ心を治むる者なり」と。夫れ衆心已に乱るれば、良将有りと雖も、亦た之が為に計ること能わず〕。是に於て漢兵夾撃し、大いに之を破り、成安君を泜水の上に斬り、趙王歇を擒にす。
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『長短経』利害諸将、首虜を殺し、留まりて賀し、因りて信に問いて曰く「兵法に『山陵を右背にし、水沢を前左にす』と。今者、将軍は臣等をして反りて背水の陣をなさしめ、曰く『趙を破りて会食せん』と。時に臣等服せず。然れども竟に以て勝つ。此れ何の術ぞや」と。信曰く「此れ兵法の中に在り、顧だ諸君察せざるのみ。兵法に曰わずや『之を死地に陥れて而る後に生き、之を亡地に置きて而る後に存す』と〔夫れ死地に処るは、力均しく勢い敵するを謂う。死地を以て勝ちを取るは可なり。若し至弱を以て至強に当たり、弱兵を死地に投ずれば、自ら陥ることを貽すなり。故に孫子曰く「兵恐るれば、救うべからず」と。又た経に曰く「大衆害に陥りて、然る後に能く勝敗を為す」と。是に知る、死地の機は、必ず大衆を用うるなり〕。且つ信は能く素より士大夫を撫循するに非ず。所謂市人を駆りて戦わしむるなり。其の勢い之を死地に置きて、人人をして自ら戦いを為さしむるに非ずんば、今之に生地を与えば、皆走らん。寧んぞ尚お得て之を用うべけんや」と。諸将曰く「善し。及ぶ所に非ざるなり」と。