長短経 / 時宜
韓信伐趙、軍井陘、選輕騎二千人、人持一赤幟、從間道昇山而望趙軍、誡曰、「趙見我走、必空壁逐我、若疾入趙壁、㧞趙幟、立漢赤幟。」信乃使萬人先行、出背水陣。平旦、信建大將之旗鼔、行出井陘口。趙開壁擊之、大戰良久。于是信棄旗鼓、走水上軍。水上軍開入之、復疾戰。趙空壁争漢旗鼓、逐韓信。韓信等已入水上軍、軍皆殊死戰、不可敗。信出竒兵二千騎、共候趙空壁逐利、則馳入趙壁、皆㧞趙旗、立漢赤幟二千。趙軍已不能得信等、欲還歸壁、皆漢赤幟、而大驚、以為皆已得趙王將矣。遂亂、遁走、趙將雖斬之、不能禁也。
新字:韓信伐趙、軍井陘、選軽騎二千人、人持一赤幟、従間道昇山而望趙軍、誡曰、「趙見我走、必空壁逐我、若疾入趙壁、抜趙幟、立漢赤幟。」信乃使万人先行、出背水陣。平旦、信建大将之旗鼓、行出井陘口。趙開壁撃之、大戦良久。于是信棄旗鼓、走水上軍。水上軍開入之、復疾戦。趙空壁争漢旗鼓、逐韓信。韓信等已入水上軍、軍皆殊死戦、不可敗。信出奇兵二千騎、共候趙空壁逐利、則馳入趙壁、皆抜趙旗、立漢赤幟二千。趙軍已不能得信等、欲還帰壁、皆漢赤幟、而大驚、以為皆已得趙王将矣。遂乱、遁走、趙将雖斬之、不能禁也。
書き下し
韓信、趙を伐ち、井陘に軍す。軽騎二千人を選び、人ごとに一赤幟を持たしめ、間道より山に昇りて趙軍を望ましめ、誡めて曰く「趙は我が走るを見ば、必ず壁を空しくして我を逐わん。若疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜きて、漢の赤幟を立てよ」と。信乃ち万人をして先に行かしめ、出でて背水の陣を為す。平旦、信は大将の旗鼓を建て、行きて井陘口を出づ。趙、壁を開きて之を撃ち、大いに戦うこと良久し。是に於て信は旗鼓を棄てて、水上の軍に走る。水上の軍開きて之を入れ、復た疾く戦う。趙は壁を空しくして漢の旗鼓を争い、韓信を逐う。韓信等已に水上の軍に入り、軍皆殊死して戦い、敗るべからず。信の出だす所の奇兵二千騎、共に趙の壁を空しくして利を逐うを候い、則ち馳せて趙の壁に入り、皆趙の旗を抜き、漢の赤幟二千を立つ。趙軍已に信等を得ること能わず、還りて壁に帰らんと欲するに、皆漢の赤幟なり。而して大いに驚き、以為えらく皆已に趙王の将を得たりと。遂に乱れて遁走し、趙の将之を斬ると雖も、禁ずること能わざるなり。
現代語訳
韓信は趙を伐ち、井陘に陣を置いた。軽騎兵二千を選び、一人ひとりに赤い旗を一本ずつ持たせ、間道から山に登って趙軍を見下ろさせ、戒めて言った。「趙は我々が逃げるのを見れば、必ず砦を空にして追ってくる。お前たちはすばやく趙の砦に入り、趙の旗を抜いて漢の赤い旗を立てよ」。韓信は一万人を先に行かせ、川を背にして陣を敷かせた。夜明けに韓信は大将の旗と太鼓を立てて井陘の口を出た。趙は砦を開いて撃って出て、長いこと激しく戦った。そこで韓信は旗と太鼓を捨てて川べりの陣に逃げ込んだ。川べりの陣は門を開いて迎え入れ、また激しく戦った。趙は砦を空にして漢の旗と太鼓を奪い合い、韓信を追った。韓信らはすでに川べりの陣に入っており、兵は皆死に物狂いで戦ったので、破れなかった。韓信が出していた奇兵二千騎は、趙が砦を空にして手柄を追うのを待って、趙の砦に駆け込み、趙の旗をすべて抜いて、漢の赤い旗二千本を立てた。趙軍は韓信らを捕らえられず、砦に帰ろうとすると、どこも漢の赤い旗ばかりだった。大いに驚き、趙王の将はもう捕らえられたと思い込んだ。そこで乱れて逃げ出し、趙の将が逃げる兵を斬っても止められなかった。
解説

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