長短経 / 天時
雖云任賢使能、則不占而事利、令明法審、則不筮而計成、封功賞勞、則不禱而福從、共苦同甘、則犯逆而功就。然而臨機制用、有五助焉、一曰助謀、二曰助勢、三曰助怯、四曰助疑、五曰助地。此五者、助勝之術。故曰、“知地知天、勝乃可全。”不可不審察也。
新字:雖云任賢使能、則不占而事利、令明法審、則不筮而計成、封功賞労、則不祷而福従、共苦同甘、則犯逆而功就。然而臨機制用、有五助焉、一曰助謀、二曰助勢、三曰助怯、四曰助疑、五曰助地。此五者、助勝之術。故曰、“知地知天、勝乃可全。”不可不審察也。
書き下し
賢に任じ能を使えば、則ち占わずして事利あり。令明らかに法審らかなれば、則ち筮せずして計成る。功を封じ労を賞すれば、則ち禱らずして福従う。苦を共にし甘を同じくすれば、則ち逆を犯して功就ると云うと雖も、然り而して機に臨み用を制するに、五助有り。一に曰く謀を助く。二に曰く勢いを助く。三に曰く怯を助く。四に曰く疑を助く。五に曰く地を助く。此の五者は、勝ちを助くるの術なり。故に曰く「地を知り天を知らば、勝ち乃ち全うすべし」と。審らかに察せざるべからざるなり。
現代語訳
賢者を任じ有能な者を使えば、占わなくても事はうまくいく。命令が明らかで法が詳しく定まっていれば、筮竹で占わなくても計略は成る。功ある者に領地を与え苦労した者を賞すれば、祈らなくても福がついてくる。苦楽をともにすれば、不利な条件を冒しても功は成る、と言う。それでも、機に臨んで兵を用いるには五つの助けがある。一つ目は謀を助ける、二つ目は勢いを助ける、三つ目は臆病な者を助ける、四つ目は迷う者を助ける、五つ目は地の利を助ける。この五つは勝ちを助ける術である。だから孫子は「地を知り天を知れば、勝利は完全になる」と言う。よく見極めなければならない。
解説

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