長短経 / 定名
或曰、“音與樂、既聞命矣。敢問儀與禮同乎?”對曰、“昔趙簡子問揖讓周旋之禮於子太叔、太叔曰、‘是儀也、非禮也。吉也聞諸先大夫子産曰、“夫禮、天之經也〔經者、道之常也。、〕地之義也〔義者、利之宜也。、〕民之行也〔行者、人所履也。’〕天地之經、民實則之。則天之明〔日月星辰、天之明也。、〕因地之性〔髙下剛柔、地之性也。、〕生其六氣〔謂隂、陽、風、雨、晦、明也。、〕用其五行〔金木水火土也。〕氣為五味〔酸醎辛甘苦也、〕發為五色〔青黄赤白黒發見于是非分别也。、〕章為五聲〔宮商角徴羽也。〕
新字:或曰、“音与楽、既聞命矣。敢問儀与礼同乎?”対曰、“昔趙簡子問揖譲周旋之礼於子太叔、太叔曰、‘是儀也、非礼也。吉也聞諸先大夫子産曰、“夫礼、天之経也〔経者、道之常也。、〕地之義也〔義者、利之宜也。、〕民之行也〔行者、人所履也。’〕天地之経、民実則之。則天之明〔日月星辰、天之明也。、〕因地之性〔高下剛柔、地之性也。、〕生其六気〔謂陰、陽、風、雨、晦、明也。、〕用其五行〔金木水火土也。〕気為五味〔酸醎辛甘苦也、〕発為五色〔青黄赤白黒発見于是非分別也。、〕章為五声〔宮商角徴羽也。〕
書き下し
或るひと曰く「音と楽とは、既に命を聞けり。敢えて問う、儀と礼とは同じきか」と。対えて曰く「昔、趙簡子、揖譲周旋の礼を子太叔に問う。太叔曰く『是れ儀なり、礼に非ざるなり』と。吉や、諸を先大夫子産に聞きて曰く『夫れ礼は、天の経なり〔経は、道の常なり〕。地の義なり〔義は、利の宜しきなり〕。民の行なり〔行は、人の履む所なり〕。天地の経にして、民実に之に則る。天の明に則り〔日月星辰は、天の明なり〕、地の性に因り〔高下剛柔は、地の性なり〕、其の六気を生じ〔陰・陽・風・雨・晦・明を謂うなり〕、其の五行を用う〔金木水火土なり〕。気は五味と為り〔酸鹹辛甘苦なり〕、発して五色と為り〔青黄赤白黒、是非分別を発見するなり〕、章れて五声と為る〔宮商角徴羽なり〕。
現代語訳
ある人が言った。「音と楽についてはわかりました。では、儀と礼は同じですか」。答えて言う。「昔、趙簡子が会釈や譲り合い、立ち居振る舞いの礼について子太叔に問うた。子太叔は言った。『それは儀であって、礼ではありません。私は先の大夫子産からこう聞きました。礼とは天の常道であり〔経とは道の常である〕、地の宜しさであり〔義とは利の宜しさである〕、民の行いである〔行とは人が履み行うものである〕。天地の常道を民はそのまま手本とする。天の明るさにのっとり〔日月星辰は天の明るさである〕、地の性質に従い〔高低剛柔は地の性質である〕、六つの気を生み〔陰・陽・風・雨・晦・明をいう〕、五行を用いる〔金木水火土である〕。気は五つの味となり〔酸・鹹・辛・甘・苦〕、現れて五つの色となり〔青黄赤白黒、是非の区別が表れる〕、明らかになって五つの音となる〔宮商角徴羽である〕。
解説
この章句が説くこと
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