長短経 / 運命
推此以及教化、則亦如之。人有不教化而自成者、有待教化而後成者、有雖加教化而終不成者、故上智與下愚不移、至於中人則可上可下〔議曰、《傳》云、「能者養之以福、不能者敗以取禍。」此可上可下者。〕推此以及天道、則亦如之。
新字:推此以及教化、則亦如之。人有不教化而自成者、有待教化而後成者、有雖加教化而終不成者、故上智与下愚不移、至於中人則可上可下〔議曰、《伝》云、「能者養之以福、不能者敗以取禍。」此可上可下者。〕推此以及天道、則亦如之。
書き下し
此を推して以て教化に及ぼすも、則ち亦た之の如し。人に教化せずして自ら成る者有り、教化を待ちて後に成る者有り、教化を加うと雖も終に成らざる者有り。故に上智と下愚とは移らず、中人に至りては則ち上るべく下るべし〔議に曰く、伝に云う「能者は之を養いて以て福あり、不能者は敗りて以て禍を取る」と。此れ上るべく下るべき者なり〕。此を推して以て天道に及ぼすも、則ち亦た之の如し。
現代語訳
これを教化に推し及ぼしても同じである。人には、教えなくても自ら成る者、教えを受けて初めて成る者、教えを加えても最後まで成らない者がいる。だから最上の賢者と最下の愚者は変わらないが、中くらいの人は上にも下にも行ける〔論じて言う。『左伝』に「できる者は養って福を得、できない者はそこなって禍を取る」とある。これが上にも下にも行ける者である〕。これを天道に推し及ぼしても同じである。
解説
運命の三勢を、趙蕤は教育に当てはめます。教えなくても伸びる人、教えて初めて伸びる人、どれだけ教えても伸びない人がいる。上智と下愚は教えで変わらないが、大多数の中くらいの人は、教え方と本人の心がけ次第で上にも下にも行く。だから教育が意味を持つのは、この中間の人々に対してです。天の運命も同じで、変えられない部分の間に、人の行いで上下する広い領域がある。そこに力を注ぐべきなのです。
この章句が説くこと
運命教化上智下愚中人育成可能性
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