長短経 / 難必
漢時、梁孝王藏匿羊勝、公孫詭、韓安國泣說梁孝王曰、“大王自度於皇帝〔皇帝、景帝也。是梁孝王兄。、〕孰與太上皇之與髙皇帝、及皇帝之與臨江王親?”〔臨江王、景帝太子也。〕孝王曰、“弗如也。”安國曰、“夫太上、臨江、親父子間、然而髙帝‘提三尺劍取天下者、朕也!’故太上終不得制事、居櫟陽。臨江王、適長太子也、以言過廢王臨江〔景甞屬諸姬大子母、栗姬言不遜、由是廢太子、栗姬憂死也。〕用宮垣事、卒自殺中尉府。何者?治天下終不以私害公。語曰、雖有親父、安知其不為虎?雖有親兄、安知其不為狼?今大王列在諸侯、說一邪臣、浮說犯上、禁撓明法。天子以太后故、不忍致法於王。太后日夜泣涕、幸大王自改、而大王終不覺悟。又如太后車即晏駕、大王尚誰攀乎?”語未卒、孝王出羊勝等。
新字:漢時、梁孝王蔵匿羊勝、公孫詭、韓安国泣説梁孝王曰、“大王自度於皇帝〔皇帝、景帝也。是梁孝王兄。、〕孰与太上皇之与高皇帝、及皇帝之与臨江王親?”〔臨江王、景帝太子也。〕孝王曰、“弗如也。”安国曰、“夫太上、臨江、親父子間、然而高帝‘提三尺剣取天下者、朕也!’故太上終不得制事、居櫟陽。臨江王、適長太子也、以言過廃王臨江〔景甞属諸姫大子母、栗姫言不遜、由是廃太子、栗姫憂死也。〕用宮垣事、卒自殺中尉府。何者?治天下終不以私害公。語曰、雖有親父、安知其不為虎?雖有親兄、安知其不為狼?今大王列在諸侯、説一邪臣、浮説犯上、禁撓明法。天子以太后故、不忍致法於王。太后日夜泣涕、幸大王自改、而大王終不覚悟。又如太后車即晏駕、大王尚誰攀乎?”語未卒、孝王出羊勝等。
書き下し
漢の時、梁の孝王、羊勝・公孫詭を蔵匿す。韓安国泣きて梁の孝王に説きて曰く「大王自ら度るに皇帝に於けるは〔皇帝は景帝なり。是れ梁の孝王の兄なり〕、太上皇の高皇帝に与る、及び皇帝の臨江王に与るの親しきに孰与れぞ」と〔臨江王は景帝の太子なり〕。孝王曰く「如かざるなり」と。安国曰く「夫れ太上・臨江は、親しき父子の間なり。然り而して高帝曰く『三尺の剣を提げて天下を取る者は、朕なり』と。故に太上は終に事を制するを得ず、櫟陽に居る。臨江王は適長の太子なり。言の過ちを以て廃せられて臨江に王たり〔景嘗て諸姫・太子の母を属す。栗姫の言遜らず。是に由りて太子を廃し、栗姫憂えて死すなり〕。宮垣の事を用て、卒に中尉府に自殺す。何となれば、天下を治むるは終に私を以て公を害せざればなり。語に曰く、親父有りと雖も、安んぞ其の虎と為らざるを知らん。親兄有りと雖も、安んぞ其の狼と為らざるを知らん、と。今、大王は列して諸侯に在り、一邪臣に説び、浮説して上を犯し、明法を禁撓す。天子は太后の故を以て、法を王に致すに忍びず。太后は日夜泣涕して、大王の自ら改むることを幸う。而るに大王は終に覚悟せず。又た如し太后の車即ち晏駕せば、大王尚お誰にか攀らん」と。語未だ卒わらざるに、孝王、羊勝等を出だす。
現代語訳
漢の時代、梁の孝王は羊勝と公孫詭をかくまった。韓安国は泣きながら孝王に説いた。「大王はご自分と皇帝との関係を〔皇帝は景帝で、梁の孝王の兄〕、太上皇と高祖、皇帝と臨江王の親しさと比べてどうお考えですか」〔臨江王は景帝の太子〕。孝王は「及ばない」と言った。韓安国は言った。「太上皇と高祖、景帝と臨江王は、実の父子の間柄です。それでも高祖は『三尺の剣を提げて天下を取ったのは私だ』と言い、太上皇は結局政事に口を出せず、櫟陽に住みました。臨江王は正妻の長子で太子でしたが、母の言葉の過ちで廃されて臨江王となり〔景帝がかつて妃たちを太子の母栗姫に託そうとしたとき、栗姫の言葉が不遜だったので太子を廃し、栗姫は憂えて死んだ〕、宗廟の垣を侵した件で、最後は中尉府で自殺しました。なぜか。天下を治めるには、結局私情で公を害することはないからです。ことわざに、実の父でも虎にならないとどうしてわかろう、実の兄でも狼にならないとどうしてわかろう、とあります。いま大王は諸侯の列にありながら、一人の邪な臣を喜び、根拠のない説で天子を犯し、明らかな法を曲げています。天子は太后のために、王に法を適用するに忍びないでいます。太后は日夜泣いて、大王が自ら改めるのを願っています。それなのに大王は最後まで悟られない。もし太后が亡くなられたら、大王はいったい誰にすがるのですか」。話が終わらないうちに、孝王は羊勝らを差し出した。
解説

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史記 韓長孺列伝公孫詭・羊勝孝王を説きて帝の太子と為り及び地を益す事を求む、漢の大臣の聴かざるを恐れ、乃ち陰かに人をして漢の用事の謀臣を刺さしむ。景帝遂に詭・勝等の計画を聞き、乃ち使を遣りて詭・勝を捕へしむ。内史安国詭・勝の孝王の所に匿るるを聞き、安国入りて王に見えて泣きて曰く、「主辱めらるれば臣死す。大王良臣無く、故に事紛紛として此に至る。今詭・勝得ずんば、辞して賜死を請はん」と。王曰く、「何ぞ此に至る」と。安国泣数行下りて曰く、「大王自ら皇帝に度るに、太上皇の高皇帝におけると、皇帝の臨江王におけると孰与れか親しき。天下を治むるは終に私を以て公を乱さず。今大王一邪臣の浮説を悦び、上禁を犯し、明法を橈ぐ。如し太后の宮車即ち晏駕せば、大王尚ほ誰にか攀らんや」と。語未だ卒らざるに、孝王泣数行下り、安国に謝して曰く、「吾今詭・勝を出ださん」と。詭・勝自殺す。梁の事皆釈するを得、安国の力なり。
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『長短経』難必〔景帝の弟梁の孝王、羊勝・公孫詭の計を用いて、漢の太子と為らんことを求む。大臣の聴かざるを恐れ、乃ち陰かに人をして漢の事を用うる謀臣袁盎を刺さしむ。帝、詭・勝の計を聞き、使い十輩を遣わし、国を挙げて大いに索めしめ、詭・勝を捕えんとするも、得ず。内史韓安国、詭・勝の孝王の所に匿るるを聞き、入りて王に見え、之に説く。王、詭・勝を出だす。詭・勝自殺す。〕
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史記 韓長孺列伝御史大夫韓安国は、梁の成安の人なり。後に睢陽に徙る。嘗て韓子・雑家の説を騶の田生の所に受く。梁の孝王に事へて中大夫と為る。呉楚反する時、孝王安国及び張羽をして将と為さしめ、呉の兵を東界に捍ぐ。張羽は力戦し、安国は持重す。故を以て呉梁を過ぐる能はず。呉楚已に破れ、安国・張羽の名此に由りて顕る。梁の孝王は、景帝の母弟なり。竇太后之を愛し、自ら相・二千石を置かんことを請ふを得しむ。出入遊戯、天子に僭す。天子之を聞きて、心に善しとせず。太后帝の善しとせざるを知り、乃ち梁の使者を怒りて、見ず、王の為す所を案責す。韓安国梁の使と為り、大長公主に見えて泣きて曰く、「何ぞ梁王の人の子為るの孝、人の臣為るの忠、太后曾ち省みざるや。夫れ前日呉・楚・斉・趙七国反する時、関より以東皆合従して西郷す。惟だ梁のみ最も親しくして艱難を為す。梁王太后・帝の中に在りて、諸侯擾乱するを念ひ、一言すれば泣くこと数行下り、跪きて臣等六人を送り、兵を将ゐて呉楚を撃ち卻けしむ。呉楚故を以て兵敢へて西せずして、卒に破亡す。梁王の力なり。今太后小睗苛礼を以て梁王を責望す。梁王の父兄は皆帝王にして、見る所の者大なり。故に出づれば蹕と称し、入れば警と言ふ。車旗は皆帝の賜ふ所なり。即ち以て鄙県に侘り、国中を駆馳して、以て諸侯に夸り、天下をして尽く太后・帝の之を愛するを知らしめんと欲するなり。今梁の使来れば、輒ち之を案責す。梁王恐れ、日夜涕泣思慕して、為す所を知らず。何ぞ梁王の子為りて孝、臣為りて忠なるに、太后恤れまざるや」と。大長公主具に以て太后に告ぐ。太后喜びて曰く、「為に之を帝に言へ」と。之を言ふ。帝の心乃ち解けて、冠を免ぎて太后に謝して曰く、「兄弟相教ふる能はず、乃ち太后の為に憂ひを遺す」と。悉く梁の使に見え、厚く之に賜ふ。其の後梁王益々親驩せらる。太后・長公主更々安国に千余金に直るべきを賜ふ。名此に由りて顕れ、漢に結ぶ。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。