長短経 / 詭順
初、呉王濞與七國謀反、及發、濟北王欲自殺。齊人公孫玃〔俱碧反〕謂濟北王曰、“臣請試為大王明說梁王、通意天子。說而不用、死未晩也。”公孫玃遂見梁王、曰、“夫濟北之地、東接强齊、南牽呉越、北脅燕趙、此四分五裂之國。權不足以自守、勁不足以捍寇、又非有竒佐之士以待難也。雖墜〔墜、失也。〕言於呉、非其正計也。
新字:初、呉王濞与七国謀反、及発、済北王欲自殺。斉人公孫玃〔倶碧反〕謂済北王曰、“臣請試為大王明説梁王、通意天子。説而不用、死未晩也。”公孫玃遂見梁王、曰、“夫済北之地、東接強斉、南牽呉越、北脅燕趙、此四分五裂之国。権不足以自守、勁不足以捍寇、又非有奇佐之士以待難也。雖墜〔墜、失也。〕言於呉、非其正計也。
書き下し
初め、呉王濞、七国と反を謀る。発するに及び、済北王自殺せんと欲す。斉人公孫玃〔倶碧の反〕、済北王に謂いて曰く「臣請う、試みに大王の為に明らかに梁王に説き、意を天子に通ぜん。説きて用いられずんば、死するも未だ晩からず」と。公孫玃遂に梁王に見えて曰く「夫れ済北の地は、東は強斉に接し、南は呉越に牽かれ、北は燕趙に脅かさる。此れ四分五裂の国なり。権は以て自ら守るに足らず、勁は以て寇を捍ぐに足らず、又た奇佐の士の以て難を待つ有るに非ず。言を呉に墜すと雖も〔墜は失なり〕、其の正計に非ざるなり。
現代語訳
はじめ呉王劉濞が七国と謀反を企てた。反乱が始まると、済北王は自殺しようとした。斉の人公孫玃〔音はカク〕は済北王に言った。「私に試しに大王のために梁王にはっきり説明させてください。天子にお気持ちを伝えてもらいます。説いて聞き入れられなければ、死んでも遅くはありません」。公孫玃はそこで梁王に会って言った。「済北の地は、東は強い斉に接し、南は呉越に引っ張られ、北は燕趙に脅かされています。これは四方五方に引き裂かれた国です。権力は自分を守るのに足りず、力は敵を防ぐのに足りず、しかも難に備える優れた補佐もいません。呉に対して反乱に加わると口を滑らせたとしても〔墜とは失うこと〕、それは本心からの計ではありません。
解説

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『長短経』詭順臣竊かに之を料るに、能く西山を歴て、長楽を径し、未央に抵りて、袂を攘いて正議する者は、独り大王のみ。上は全亡の功有り、下は百姓を安んずるの名有り。徳は骨髄に淪み、恩は無窮に加わらん。願わくは大王意を留めて詳らかに之を維え」と。孝王大いに説び、人をして馳せて以て聞せしむ。済北王坐せざるを得て、菑川に徙封せらる。
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『長短経』詭順昔、鄭の祭仲は宋人に許して公子突を立て、以て其の君を活かす。義に非ざるなり。春秋之を記す。其の生を以て死に易え、存を以て亡に易うるが為なり。嚮使し済北情を見わし、実に従わざるの端を示さば、則ち呉は必ず先ず斉を歴て、済北に軍し、燕趙を招きて之を総べん。此くの如くんば、則ち山東の従は結びて隙無からん。今、呉楚の王は諸侯の兵を練り、白徒の衆を駆りて、西のかた天子と衡を争う。済北独り節を底めて堅守して下らず、呉をして与を失いて助け無く、跬歩して独り進み、瓦解土崩し、破敗して救われざらしむる者は、未だ必ずしも済北の力に非ずんばあらず。夫れ区区たる済北を以て、諸侯と強を争うは、是れ羔犢の弱きを以て、虎狼の敵を捍ぐなり。職を守りて撓まざるは、誠一と謂うべし。功義此くの如くにして、尚お上に疑われ、肩を脅し首を低れ、足を累ね襟を撫して、自ら前まざりしを悔ゆるの心有らしむるは〔呉と西せざりしを悔ゆるなり〕、社稷の利に非ざるなり。臣恐らくは藩臣の職を守る者之を疑わん。
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『長短経』三国権是の後、呉王劉濞、子の故を以て反す。初め発するや、其の大将田禄伯曰く「兵屯聚して西し、他の奇道無くんば、以て功に就き難し。臣願わくは奇兵五万人を得て、別に江・淮に循いて上り、淮南・長沙を収め、武関に入りて、大王と会せん。此れも亦た一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く「王は反を以て名と為す。此の兵は以て人に藉し難し。人も亦た且に王に反せんとす」と。呉王許さず。其の少将桓将軍、復た呉王に説きて曰く「呉は歩兵多く、歩兵は険阻に利あり。漢は車騎多く、車騎は平地に利あり。願わくは大王、過ぐる所の城邑、下らずんば、宜しく棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食い、山河の険を阻みて、以て諸侯に令すべし。関に入ること無しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐ろに行き、留まりて城邑を下さば、漢の車騎至りて、梁・楚の郊に馳せ入り、事敗れん」と。王、諸老将に問う。老将曰く「此れ年少推鋒の計のみ。安んぞ大慮を知らん」と。呉王、桓将軍の計に従わず、乃ち自ら并せて其の兵を将いる。漢は太尉周亜夫を以て呉・楚を撃たしめ、亜夫其の父の客の計を用いて、遂に呉を敗る。〔客の計は覇紀の上に在り。〕
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史記 呉王濞列伝遂に使を発して斉・菑川・膠東・済南・済北に約す。皆許諾す。而して曰く、「城陽の景王は義有り、諸呂を攻む。与にする勿れ。事定まらば之を分かつのみ」と。諸侯既に新たに削罰せられ、振恐して、多く晁錯を怨む。呉の会稽・豫章郡を削るの書至るに及び、則ち呉王先づ兵を起こす。膠西は正月丙午、漢の吏二千石以下を誅す。膠東・菑川・済南・楚・趙も亦然り。遂に兵を発して西す。斉王後に悔い、薬を飲みて自殺し、約に畔く。済北王は城壊れて未だ完からず、其の郎中令其の王を劫守し、兵を発するを得ず。膠西渠率と為り、膠東・菑川・済南共に臨菑を攻囲す。趙王遂も亦反し、陰かに匈奴をして兵を連ねしむ。七国の発するや、呉王悉く其の士卒をあげ、令を国中に下して曰く、「寡人年六十二、身自ら将たり。少子年十四、亦士卒の先と為る。諸々の年上は寡人と比しく、下は少子と等しき者は、皆発せよ」と。二十余万人を発す。南のかた閩越・東越に使ひす。東越も亦兵を発して従ふ。孝景帝三年正月甲子、初めて兵を広陵に起こす。西のかた淮を渉り、因りて楚の兵を并す。使を発して諸侯に書を遺りて曰く、「呉王劉濞敬みて膠西王・膠東王・菑川王・済南王・趙王・楚王・淮南王・衡山王・廬江王・故の長沙王の子に問ふ。幸ひに寡人に教へよ。漢に賊臣有り、天下に功無く、諸侯の地を侵奪し、吏をして劾し系ぎ訊治せしめ、之を僇辱するを以て故と為し、諸侯人君の礼を以て劉氏の骨肉を遇せず、先帝の功臣を絶ち、姦宄を進任し、天下を詿乱し、社稷を危うくせんと欲す。陛下多病にして志失ひ、省察する能はず。兵を挙げて之を誅せんと欲す。謹みて教へを聞かん。敝国は狭しと雖も、地方三千里、人少なしと雖も、精兵五十万を具ふべし。
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