長短経 / 懼戒
吳王濞以子故不朝〔孝文帝時、吴太子入朝、侍皇太子飲博、争道、不恭、皇太子引博局投吴太子、殺之。、〕及削地書至、於是乃使中大夫應髙誂〔田鳥反〕膠西王、無文書、口報曰、「呉王不肖、有宿夕之憂、不敢自外、使喻其歡心。」王曰、「何以教之?」髙曰、「今者主上興于姦雄、飾于邪臣、好小善、聽䜛賊、擅變更律令、侵奪諸侯之地、徵求滋多、誅罰良善、日以益甚。語有之曰、䑛糠及米。』吳與膠西、知名諸侯也、一時見察、恐不得安肆矣。吳王身有内病、不能朝請二十餘年、常患見疑、無以自白。今脅肩累足、猶懼不見釋。竊聞大王以爵事有適〔直革反、〕所聞諸侯削地、罪不至此、此恐不得削地而已。」
新字:呉王濞以子故不朝〔孝文帝時、呉太子入朝、侍皇太子飲博、争道、不恭、皇太子引博局投呉太子、殺之。、〕及削地書至、於是乃使中大夫応高誂〔田鳥反〕膠西王、無文書、口報曰、「呉王不肖、有宿夕之憂、不敢自外、使喩其歓心。」王曰、「何以教之?」高曰、「今者主上興于姦雄、飾于邪臣、好小善、聴讒賊、擅変更律令、侵奪諸侯之地、徴求滋多、誅罰良善、日以益甚。語有之曰、䑛糠及米。』呉与膠西、知名諸侯也、一時見察、恐不得安肆矣。呉王身有内病、不能朝請二十余年、常患見疑、無以自白。今脅肩累足、猶懼不見釈。窃聞大王以爵事有適〔直革反、〕所聞諸侯削地、罪不至此、此恐不得削地而已。」
書き下し
呉王濞、子の故を以て朝せず〔孝文帝の時、呉の太子入朝し、皇太子に侍して飲博し、道を争いて恭しからず。皇太子、博局を引きて呉の太子に投じ、之を殺す〕。削地の書至るに及び、是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂わしむ。文書無く、口もて報じて曰く「呉王不肖にして、宿夕の憂い有り。敢えて自ら外にせず、其の歓心を喩さしむ」と。王曰く「何を以てか之を教えん」と。高曰く「今者、主上は姦雄に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。語に之有りて曰く『糠を舐めて米に及ぶ』と。呉と膠西とは、名を知らるる諸侯なり。一時に察せられて、恐らくは安肆なるを得ざらん。呉王は身に内病有りて、朝請すること能わざること二十余年、常に疑われて以て自ら白す無きを患う。今、肩を脅し足を累ぬるも、猶お釈されざらんことを懼る。竊かに聞く、大王は爵事を以て謫有り、と。聞く所の諸侯の削地は、罪此に至らず。此れ恐らくは地を削らるるを得るのみならざらん」と。
現代語訳
呉王劉濞は子が殺されたことを理由に参朝しなかった〔孝文帝の時、呉の太子が入朝して皇太子の相手をして酒を飲み博打をしたとき、打ち方を争って無礼をはたらいた。皇太子は盤を取って呉の太子に投げつけ、殺した〕。領地を削る文書が届くと、呉王は中大夫応高を遣わして膠西王を誘わせた。文書は持たせず、口頭で伝えさせた。「呉王は不肖の身で、朝夕の憂いがあります。あなたを他人とは思わず、心の内をお伝えするよう申しつかりました」。膠西王が「どういうことを教えてくれるのか」と言うと、応高は言った。「いま主上は奸雄に担がれ、邪な臣に飾られ、小さな善を好み、讒言する者の言を聞き、勝手に律令を変え、諸侯の領地を奪い、取り立てはますます多く、善良な者を罰することが日に日にひどくなっています。『糠を舐めていると、やがて米まで舐め尽くす』という言葉があります。呉と膠西は名の知られた諸侯です。いずれ目をつけられれば、安穏とはしていられないでしょう。呉王は持病があって二十年余り参朝できず、いつも疑われて申し開きの手段がないことに悩んできました。いま肩をすくめ足を重ねるようにして慎んでいても、許されないのではと恐れています。聞けば大王も爵位の件で罰を受けられたとか。聞くところでは諸侯が領地を削られるのは罪がそこまで重くないからで、これはおそらく領地を削られるだけでは済まないでしょう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『長短経』懼戒王曰く「然り、之有り。子将に奈何せん」と。高曰く「悪を同じくすれば相助け、好を同じくすれば相留め、情を同じくすれば相成し、欲を同じくすれば相趨き、利を同じくすれば相死す。今、呉王は自ら以為えらく大王と憂いを同じくすと。願わくは時に因り理に循い、軀を棄てて以て患害を天下に除かん。抑も亦た可ならんか」と。王矍然として駭きて曰く「寡人何ぞ敢えて是くの如くせん。今、主急なりと雖も、固より死有るのみ。安んぞ戴かざるを得ん」と。高曰く「御史大夫晁錯、天子を熒惑し、諸侯を侵奪し、忠を蔽い賢を塞ぎ、朝廷疾怨し、諸侯皆背叛の意有り。人事極まれり。
-
『長短経』懼戒彗星夕べに出で、蝗虫数々起こる。此れ万世の一時にして、愁労は聖人の起こる所なり。故に呉王は内に晁錯を以て討と為さんと欲し、外に大王の後車に随いて、天下に彷徉し、郷う所の者は降り、指す所の者は下り、天下敢えて服せざるは莫からん。大王誠に幸いにして之を一言に許さば、則ち呉王は楚王を帥いて函谷関を略し、滎陽敖倉の粟を守り、漢兵を距ぎ、次舎を治めて、大王の幸いにして之に臨むを須たん。則ち天下并すべく、両主分割す。亦た可ならずや」と。王曰く「善し」と。七国皆反し、兵敗れて誅に伏す。
-
史記 呉王濞列伝膠西の群臣或いは王の謀を聞き、諫めて曰く、「一帝を承くるは、至楽なり。今大王呉と西鄉するに、弟令ひ事成るとも、両主分かれ争ひ、患乃ち始めて結ばん。諸侯の地は漢郡の什二と為すに足らず、而れども畔逆を為して以て太后を憂へしむるは、長策に非ざるなり」と。王聴かず。遂に使を発して齊・菑川・膠東・済南・済北を約し、皆許諾す。呉王の初め発するや、呉臣田祿伯大将軍為り。田祿伯曰く、「兵屯聚して西するは、佗の奇道無くんば、以て功を就し難し。臣願はくは五萬人を得て、別に江淮に循ひて上り、淮南・長沙を収め、武関に入り、大王と会せん、此れ亦た一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く、「王反を以て名と為す、此の兵以て人に藉し難し、人に藉さば亦た且つ王に反せん、柰何」と。呉王即ち田祿伯を許さず。
-
史記 呉王濞列伝孝文の時、呉の太子入見し、皇太子に侍して飲博するを得。呉の太子の師傅皆楚人、軽悍、又素より驕り、博するに、道を争ひ、不恭なり、皇太子博局を引きて呉の太子を提ち、之を殺す。是に於て其の喪を遣りて帰葬せしむ。呉に至り、呉王慍りて曰く、「天下同宗、長安に死せば即ち長安に葬らん、何ぞ必ずしも来たり葬るを為さん」と。復た喪を遣りて長安に之きて葬らしむ。呉王此に由りて稍く藩臣の礼を失し、病と称して朝せず。京師其の子の故を以て病と称して朝せざるを知り、験問するに実は病まず、諸呉の使来たれば、輒ち系し責めて之を治む。呉王恐れ、謀を為すこと滋ます甚だし。使者対へて曰く、「且つ夫れ『淵中の魚を察見するは不祥』なり。今王始め病を詐り、覚さるるに及び、責めらるること急にして、愈いよ益ます閉づ、上の之を誅せんことを恐る、計乃ち無聊なり。唯だ上之を棄てて与に更始せよ」と。是に於て天子乃ち呉の使者を赦して之を帰し、而して呉王に几杖を賜ふ。呉其の罪を釈するを得、謀も亦た益ます解く。
-
『長短経』懼戒淮南王安、厲王の死を怨望し〔厲王長は、淮南王安の父なり。長謀反し、檻車にて蜀に遷され、雍に至りて死す。上之を憐れみ、其の三子を封じ、安を以て淮南王と為すなり〕、叛逆を謀らんと欲するも、未だ因有らず。削地の後に及びて、其の謀を為すこと益々甚だし。左呉等と日夜輿地図を按じ、兵の従いて入る所を部署す。伍被を召して与に謀る。曰く「上、大王を寛赦す。王、復た安んぞ亡国の言を得んや。臣聞く、子胥、呉王を諫むるも、呉王用いず。子胥曰く『臣今、麋鹿の姑蘇の台に遊ぶを見る』と。臣も今亦た宮中に荊棘生じ、霧露衣を沾すを見る。臣聞く、聡き者は無声に聴き、明なる者は未形に見る、と。故に聖人は万挙万全なり。昔、文王一たび動きて、功は世に顕れ、列して三代と為る。此れ所謂天心に因りて以て化する者なり。故に海内期せずして随う。此れ千歳の見るべき者なり。夫れ百年の秦、近世の呉楚も、亦た以て国家の存亡を喩うるに足る。臣は敢えて子胥の誅を避けず。願わくは大王、呉王の聴を為すこと無かれ。
-
史記 呉王濞列伝呉王淮を度り、楚王と遂に西のかた棘壁に敗り、勝ちに乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁孝王恐れ、六将軍を遣りて呉を撃つ。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。正月に兵を起こし、三月に皆破る。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌、其の子より興る。技を争ひ難を発し、卒に其の本を亡ぼし、越に親しみ宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠慮し、禍反りて身に近し。袁盎権説し、初め寵せられ後に辱めらる。故に古は諸侯の地百里に過ぎず、山海以て封ぜず。『権首と為れば、反りて其の咎を受く』とは、豈だ盎・錯なるか。