長短経 / 詭順
軫曰、“楚有兩妻者、人挑其長者、長者罵之、挑其少者、少者復挑之。居無幾何、有兩妻者死、客為挑者曰、‘為汝娶少者乎?長者乎?’挑者曰、‘娶長者。’客曰、‘長者罵汝、少者復挑汝。汝何故娶長者?’挑者曰、‘居人之所、則欲其挑我、為我之妻、則欲其罵人。’今楚王明主、昭陽賢相。使軫為臣常以國情輸楚、楚王将不留臣、昭陽将不與臣從事矣。臣何故之楚?臣出必故之楚足以明臣為楚與不也。”
新字:軫曰、“楚有両妻者、人挑其長者、長者罵之、挑其少者、少者復挑之。居無幾何、有両妻者死、客為挑者曰、‘為汝娶少者乎?長者乎?’挑者曰、‘娶長者。’客曰、‘長者罵汝、少者復挑汝。汝何故娶長者?’挑者曰、‘居人之所、則欲其挑我、為我之妻、則欲其罵人。’今楚王明主、昭陽賢相。使軫為臣常以国情輸楚、楚王将不留臣、昭陽将不与臣従事矣。臣何故之楚?臣出必故之楚足以明臣為楚与不也。”
書き下し
軫曰く「楚に両妻有る者あり。人其の長者を挑めば、長者之を罵る。其の少者を挑めば、少者復た之を挑む。居ること幾何も無く、両妻有る者死す。客、挑む者の為に曰く『汝の為に少者を娶らんか、長者をか』と。挑む者曰く『長者を娶らん』と。客曰く『長者は汝を罵り、少者は復た汝を挑む。汝何の故に長者を娶る』と。挑む者曰く『人の所に居れば、則ち其の我を挑むを欲す。我の妻為れば、則ち其の人を罵るを欲す』と。今、楚王は明主、昭陽は賢相なり。軫をして臣と為りて常に国情を以て楚に輸さしめば、楚王将に臣を留めず、昭陽将に臣と事に従わざらんとす。臣何の故に楚に之かん。臣出づれば必ず故に楚に之くは、以て臣の楚の為にするや否やを明らかにするに足ればなり」と。
現代語訳
陳軫は言った。「楚に妻を二人持つ男がいました。ある人がその年上の妻を口説くと、年上の妻は罵りました。年下の妻を口説くと、年下の妻は応じて口説き返しました。ほどなく、二人の妻を持つ男が死にました。ある客が口説いた男に『お前のために年下の妻をめとってやろうか、年上の妻か』と言うと、男は『年上の妻をめとる』と言いました。客が『年上の妻はお前を罵り、年下の妻はお前に応じた。なぜ年上の妻をめとるのか』と言うと、男は言いました。『人の妻であるうちは自分に応じてほしい。自分の妻になったら、他の男を罵ってほしい』。いま楚王は明君で、昭陽は賢い宰相です。もし私が秦の臣でありながら、いつも国の内情を楚に漏らしていたら、楚王は私を置かず、昭陽も私と一緒に仕事をしないでしょう。私がどうして楚に行けましょう。私が出るときにわざわざ楚に行くのは、私が楚のために働いていたかどうかを明らかにするのに十分だからです」。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事且又役人を年久しく役換をさせねは、述懐することなく、其の役に器量相応にて、能く役儀のことを取り捌く人を外の役に替ふることは惜きことなり、是によりて一役に久しく仕置きて役換を申付ぬ時、加增か官位この外仕方なし、是上より下へ賜はりて下たるものに、勇まする道具少き故人を使ふに行支なるなり、町奉行、盗賊奉行なとをする人、役儀を能く勤めて外の役に換へ措しけれと、加增も度々はやられす、是非なく大目付などに役換をさせて、外の人を後役に申付たるとき、幾人申付けても初め大目付に役換をさせたる人の如き人なからんとき、又其人を元役に返すこと後へ歩むことなれは申付け難し、是は譬なり、外の役儀にも箇様なることあるへし、此差支皆な一役一席に立てたるより起りたるなり、
-
『徂徠先生答問書』卷中されば人々如此心懸候故、見え兼るもことわりにて候。足下も御先祖様の時代の事御聞可被成候。今の世より見候へば、其時分に名を申候能人と申候は皆疵物にて候。是別の子細に無御座候。其時分はぬり隠し申候事無御座候故、疵見え申候。疵見え申候得ば、人才は見え申候。今時も世上の悪俗に染不申候人は疵多く御座候間、疵物にならでは人才はなき物と被思召、疵物の内にて御ゑらび可被成候。疵もなく才も長じ候人を御尋候はゞ、最前申候御物ずきの注文と申物にて、疵なき人は郷原か巧言令色か扨は庸人と可被思召候。以上。
-
『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
-
尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
-
『甲陽軍鑑』品第十四一上の剛强成る男の仕形は、平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き、前にも我しはざを分別にて工夫し、其塲へ出ては機のきいたる才覚を以て手抦をせんと思ふより、人にも一円搆はぬ者なり、二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り、上の人におとりて見へぬ者なり、三下の男は只の儀もなく上中の人がゆかば、我等もまいらんとて、ふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり、四其外の男は皆人なみと申すなり、上の男は侍百人の中にふたり、中の男は百人の内に六人、下の男は百人の中に十二人、残て八十人は並なり、
-
『甲陽軍鑑』品第十一一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、