長短経 / 恩生怨
晉使韓簡子視秦師云、“師少於我、鬭士倍我。”公曰、“何故?”對曰、“出因其資、入用其寵、饑食其粟、三施而不報、所以來也。”〔觀秦怒而來、則知至恩必有至怨矣。〕杜鄴說王音曰、“鄴聞人情恩深者、其養謹、愛至者、其求謹。夫戚而不見異、親而不見殊〔戚、近也。殊、謂異於䟽也。、〕孰謂無怨?此〈棠棣〉、〈角弓〉之所作也。”由此觀之、故知怨也者、親之也、恩也者、怨之所生也。不可不察。
新字:晋使韓簡子視秦師云、“師少於我、闘士倍我。”公曰、“何故?”対曰、“出因其資、入用其寵、饑食其粟、三施而不報、所以来也。”〔観秦怒而来、則知至恩必有至怨矣。〕杜鄴説王音曰、“鄴聞人情恩深者、其養謹、愛至者、其求謹。夫戚而不見異、親而不見殊〔戚、近也。殊、謂異於䟽也。、〕孰謂無怨?此〈棠棣〉、〈角弓〉之所作也。”由此観之、故知怨也者、親之也、恩也者、怨之所生也。不可不察。
書き下し
晋、韓簡をして秦の師を視しむ。云う「師は我より少なきも、闘士は我に倍す」と。公曰く「何の故ぞ」と。対えて曰く「出づるに其の資に因り、入るに其の寵を用い、饑えて其の粟を食う。三たび施されて報いず。来たる所以なり」と。〔秦の怒りて来たるを観れば、則ち至恩には必ず至怨有るを知る。〕杜鄴、王音に説きて曰く「鄴聞く、人情は恩深き者は其の養謹しみ、愛至る者は其の求め謹しむ。夫れ戚にして異を見ず、親にして殊を見ざれば〔戚は近なり。殊は疏に異なるを謂う〕、孰か怨み無しと謂わん。此れ棠棣・角弓の作らるる所なり」と。此に由りて之を観れば、故に知る、怨みなる者は、之を親しむなり。恩なる者は、怨みの生ずる所なり。察せざるべからず。
現代語訳
晋は韓簡に秦の軍を偵察させた。韓簡は言った。「兵は我々より少ないが、戦意のある兵は我々の倍です」。晋公が「なぜか」と問うと、答えた。「公は国を出るときは秦の援助で出て、国に入るときは秦の恩寵で入り、飢えたときは秦の穀物を食べました。三度も恩を受けて報いなかった。だから秦は攻めてきたのです」。〔秦が怒って攻めてきたのを見れば、最も深い恩には必ず最も深い恨みがあるとわかる。〕杜鄴は王音に説いた。「人の情として、恩が深い相手には養い方を慎み、愛が深い相手には求め方を慎むと聞きます。身近なのに特別扱いされず、親しいのに他人と違う扱いを受けなければ〔戚は近いこと。殊は疎遠な者と違うこと〕、恨まないと誰が言えましょう。これが『棠棣』や『角弓』の詩が作られたわけです」。これで見れば、恨みとは親しいからこそ生まれ、恩とは恨みが生まれるところだとわかる。よく見極めなければならない。
解説

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『長短経』恩生怨伝に諺を称して曰く「怨む所に非ざれば、怨むこと勿かれ。寡人怨めり」と。是に知る、凡そ怨む者は、疏き所を怨まず、必ず親密を怨む。何を以て之を明らかにせん。高子曰く「小弁は、小人の詩なり」と。孟子曰く「何を以て之を言う」と。高子曰く「怨めばなり」と。孟子曰く「固なるかな、高叟の詩を為むるや。越人此に有りて、弓を関きて我を射れば、我則ち談笑して之を道う。他無し、之を疏んずればなり。兄弟弓を関きて我を射れば、我則ち泣涕して之を道う。他無し、之に戚しめばなり。然らば則ち小弁の怨みは、親を親しむなり。親を親しむは、仁なり」と。〔小弁は、幽王を刺るなり。太子の傅の作なり。〕
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国語・晋語三六年、秦歳定まり、師を帥いて晋を侵し、韓に至る。公慶鄭に謂いて曰く、「秦寇深し、奈何(いかん)せん」と。慶鄭曰く、「君其の怨みを深くす、能く其の寇を浅くせんや。鄭の知る所に非ざるなり、君其れ射(せき)に訊(と)え」と。公曰く、「舅(きゅう)の病む所か」と。右を卜するに、慶鄭吉なり。公曰く、「鄭や遜(したが)わず」と。家僕徒(かぼくと)を以て右と為し、歩揚(ほよう)戎に御す。梁由靡韓簡(かんかん)に御し、虢射右と為り、以て公に承(つ)ぐ。 公秦の師を禦ぎ、韓簡をして師を視しむ。曰く、「師は我より少なきも、闘士は衆し」と。公曰く、「何の故ぞ」と。簡曰く、「君の出ずるや己に処り、入るや己を煩わし、饑えて其の糴を食う。三たび施して報い無し、故に来たる。今又之を撃たば、秦慍(いか)らざる莫く、晋怠らざる莫し。闘士是の故に衆し」と。公曰く、「然り。今我撃たずんば、帰りて必ず狃(あなど)らん。一夫すら狃らしむべからず、而るを況んや国をや」と。公韓簡をして戦いを挑ましめて曰く、「昔君の恵みや、寡人未だ之を敢えて忘れず。寡人衆有り、能く之を合わすも離す能わず。君若し還らば、寡人の願いなり。君若し還らずんば、寡人将に避くる所無からんとす」と。穆公彫戈(ちょうか)を衡(よこ)たえて出でて使者に見えて曰く、「昔君の未だ入らざるや、寡人の憂いなり。君入りて列未だ成らざるも、寡人未だ敢えて忘れず。今君既に定まりて列成れり。君其れ列を整えよ、寡人将に親(みずか)ら見(まみ)えんとす」と。 客還る。公孫枝進み諫めて曰く、「昔君の公子重耳を納れずして晋君を納れしは、是れ君の徳を置かずして服を置けるなり。置きて遂げず、撃ちて勝たずんば、其れ諸侯の笑いと為るを若何(いかん)せん。君盍ぞ之を待たざる」と。穆公曰く、「然り。昔吾の公子重耳を納れずして晋君を納れしは、是れ吾徳を置かずして服を置けるなり。然れども公子重耳実に肯(がえ)んぜず、吾又奚(なに)をか言わんや。其の内主を殺し、其の外賂に背く。彼塞ぎて我施す、若し天無からんか。若し天有らば、吾必ず之に勝たん」と。君大夫に揖して車に就かしめ、君鼓して之を進む。晋の師潰(つい)え、戎馬濘(でい)して止まる。公慶鄭に号(さけ)びて曰く、「我を載せよ」と。慶鄭曰く、「善を忘れて徳に背き、又吉卜を廃す、何ぞ我をこれ載せん。鄭の車は以て君の避くるを辱むるに足らざるなり」と。梁由靡韓簡に御し、秦公を輅(むか)えて、将に之を止めんとす。慶鄭曰く、「釈(す)てて来たりて君を救え」と。亦救う克(あた)わず、遂に秦に止めらる。
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国語・晋語三公秦に在ること三月、秦の将に成(たいら)がんとするを聞き、乃ち郤乞(げききつ)をして呂甥に告げしむ。呂甥之に言を教え、国人を朝に令せしめて曰く、「君乞をして二三子に告げしめて曰く、『秦将に寡人を帰さんとす。寡人以て社稷を辱むるに足らず。二三子其れ改め置きて以て圉に代えよ』と」。且つ賞して以て衆を悦ばしむ。衆皆哭す。焉(ここ)に轅田(えんでん)を作る。 呂甥衆を致して之に告げて曰く、「吾が君慚(は)じて其の亡を之れ卹(うれ)えずして、群臣を是れ憂う、亦恵ならずや。君猶外に在り、若何」と。衆曰く、「何を為さば可ならん」と。呂甥曰く、「韓の病を以て、兵甲尽きたり。若し征繕(せいぜん)して以て孺子を輔け、以て君の援けと為さば、四隣の之を聞くと雖も、君を喪うも君有り、群臣輯睦(しゅうぼく)し、兵甲益々多く、我を好む者は勧み、我を悪む者は懼れん。庶(こいねが)わくは益有らんか」と。衆皆説ぶ。焉に州兵を作る。 呂甥君を秦に逆(むか)う。穆公之に訊いて曰く、「晋国和するか」と。対えて曰く、「和せず」と。公曰く、「何の故ぞ」と。対えて曰く、「其の小人は其の君の罪を念わずして、其の父兄子弟の死喪する者を悼み、征繕を憚らずして以て孺子を立て、曰く、『必ず讎に報いん。吾寧ろ斉・楚に事えん、斉・楚又交(こもごも)之を輔けん』と。其の君子は其の君を思い、且つ其の罪を知りて、曰く、『必ず秦に事えん、死有るも他無し』と。故に和せず。其の和するに比(およ)びて来たる、故に久し」と。公曰く、「而(なんじ)来たること無くとも、吾固より将に君を帰さんとす。国君を何とか謂う」と。対えて曰く、「小人は免れずと曰い、君子は則ち否とす」と。公曰く、「何の故ぞ」と。対えて曰く、「小人は忌みて思わず、其の君に従いて与に秦に報いんことを願う、是の故に云う。其の君子は則ち否として、曰く、『吾が君の入るや、君の恵みなり。能く之を納れ、能く之を執らえ、則ち能く之を釈す。徳焉より厚きは莫く、恵焉より大なるは莫し。納れて遂げず、廃して起こさず、徳を以て怨みと為す、君其れ然らざらん』と」。秦君曰く、「然り」と。乃ち晋君を改館し、七牢(しちろう)を饋(おく)る。
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『酔古堂剣掃』集醒・傷心の杯羹は亡國の禍を召く恩は多寡を論ぜず、厄に當るの壺漿は、死力の酬を得。怨は淺深に在らず、心を傷つくるの杯羹は、亡國の禍を召く。
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『新序』善謀第九今王楚の毀たれざるを妬みて、楚を毀たば韓・魏を强くするを忘る。臣王の爲に慮りて取らざるなり。詩に曰く、大武は宅を遠くして涉らず、と。此れより之を觀れば、楚國は、援なり。鄰國は、敵なり。詩に曰く、躍躍たる毚兎も犬に遇えば之を獲。他人心有り、予之を忖度す、と。今王中道にして韓・魏の王を善くするを信ずるは、此れ吳の越に親しむなり。臣之を聞く、敵は假す可からず、時は失う可からず、と。臣恐る、韓・魏辭を卑くして患を除き、而して實は大國を欺くならんことを。何となれば則ち、王は重世の德を韓・魏に無くして、累世の怨み有ればなり。夫れ韓・魏の父子兄弟、踵を接して秦に死する者、將に十世ならんとす。本國殘なわれ、社稷壞れ、宗廟隳れ、腹を刳り腸を絶ち、顙を折り頸を摺き、身首分離し、骨を草澤に暴し、頭顱僵仆して境に相い望み、臣を係ぎ子を束ねて羣虜と爲る者、路に相い及ぶ。鬼神潢洋として食らう所無く、民生を聊んぜず、族類離散して流亡し僕妾と爲る者、海内に盈つ。故に韓・魏の亡びざるは、秦の社稷の憂いなり。今王之に齎して與に楚を攻む。亦た過ちならずや。
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『春秋左氏伝』僖公十五年 外彊中乾晉侯慶鄭に謂ひて曰く、「寇深し、之を若何せん」と。對へて曰く、「君實に之を深くす、若何すべけん」と。公曰く、「孫ならず」と。右を卜す、慶鄭吉なり。使はず。步揚戎を御し、家僕徒右と為る。小駟に乘る、鄭の入れしなり。慶鄭曰く、「古は大事には、必ず其の產に乘る。其の水土に生まれて其の人の心を知り、其の教訓に安んじて、其の道に服習す。唯だ之を納るる所、志の如くならざる無し。今異產に乘りて以て戎事に從はば、懼るるに及びて變じ、將に人と易らんとす。亂氣狡憤し、陰血周く作り、張脈僨興し、外彊くして中乾く。進退可ならず、周旋能はず、君必ず之を悔いん」と。聽かず。九月、晉侯秦の師を逆へ、韓簡をして師を視しむ。復して曰く、「師は我より少なく、鬥士は我に倍す」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「出づるには其の資に因り、入るには其の寵を用ゐ、饑ゑては其の粟を食らふ。三たび施して報無し、是を以て來るなり。今又之を擊たば、我は怠り秦は奮ふ、倍すとも猶ほ未だしきなり」と。公曰く、「一夫すら狃るべからず、況んや國をや」と。遂に戰を請はしめて曰く、「寡人佞ならず、能く其の眾を合はすれども離す能はず。君若し還らずんば、命を逃るる所無からん」と。秦伯公孫枝をして對へしめて曰く、「君の未だ入らざるや、寡人之を懼れ、入りて未だ列を定めざるも、猶ほ吾が憂ひなり。苟も列定まらば、敢へて命を承けざらんや」と。韓簡退きて曰く、「吾幸ひにして囚はるるを得ん」と。