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長短経 / 忠疑

《淮南子》曰、“親母為其子扢禿、出血至耳、見者以為愛子之至也、使在於繼母、則過者以為悷也。”事之情一也、所從觀者異耳。從城上視牛如羊、視羊如豚、所居髙也。窺面於盤水則圎於□〔□音随訓虧也。、〕面形不變、其故有所圓、有所□者、所自窺之異也。今吾雖欲正身而待物、庸詎知世之所自窺於我者乎?是知天下是非無所定也。世各是其所是、非其所非。今吾欲擇是而居之、擇非而去之、不知世之所是非者、孰是孰非哉!

新字:《淮南子》曰、“親母為其子扢禿、出血至耳、見者以為愛子之至也、使在於継母、則過者以為悷也。”事之情一也、所従観者異耳。従城上視牛如羊、視羊如豚、所居高也。窺面於盤水則圎於□〔□音随訓虧也。、〕面形不変、其故有所円、有所□者、所自窺之異也。今吾雖欲正身而待物、庸詎知世之所自窺於我者乎?是知天下是非無所定也。世各是其所是、非其所非。今吾欲択是而居之、択非而去之、不知世之所是非者、孰是孰非哉!

書き下し

淮南子に曰く「親母其の子の為に禿を扢きて、血を出だして耳に至るも、見る者以て子を愛するの至りと為す。継母に在らしめば、則ち過ぐる者以て悷りと為す」と。事の情は一なり、従りて観る所の者異なるのみ。城上より牛を視れば羊の如く、羊を視れば豚の如し。居る所高ければなり。面を盤水に窺えば則ち円く、□に於いてす〔□は音随、訓は虧なり〕。面の形は変ぜず。其の故に円なる所有り、□なる所有る者は、自りて窺う所異なればなり。今、吾身を正して物を待たんと欲すと雖も、庸詎ぞ世の自りて我を窺う所の者を知らんや。是に知る、天下の是非は定まる所無し。世各々其の是とする所を是とし、其の非とする所を非とす。今、吾是を択びて之に居り、非を択びて之を去らんと欲するも、世の是非とする所の者、孰れか是にして孰れか非なるかを知らざるなり。

現代語訳

『淮南子』に言う。「実の母が子のできものを掻いて、血が耳まで流れても、見る者は子を深く愛しているからだと思う。継母が同じことをすれば、通りがかりの者は意地悪だと思う」。事の実情は同じでも、見る立場が違うだけである。城の上から牛を見れば羊のように、羊を見れば豚のように小さく見える。いる場所が高いからである。盆の水に顔を映せば丸く見えたり、ゆがんで欠けて見えたりする〔□は音が随、意味は欠けること〕。顔の形は変わらないのに、丸く見えたり欠けて見えたりするのは、映す器が違うからである。いま私が身を正して物事に向かおうとしても、世の人がどこから私を見ているかをどうして知ることができよう。だから天下の是非は定まらないとわかる。世の人はそれぞれ自分が正しいと思うものを正しいとし、間違いと思うものを間違いとする。いま私が正しいものを選んでそこにいようとし、間違ったものを選んで去ろうとしても、世の人の是非のうち、どれが正しくどれが間違いかはわからないのである。

解説

実の母が子のできものを掻いて血が出ても愛情と見られ、継母が同じことをすれば虐待と見られる。城の上から見れば牛も羊のように小さく、水に映る顔は器によって丸くもゆがんでも見える。事実は一つでも、見る人の位置で見え方が変わる。自分がどれほど正しくふるまっても、他人がどこから自分を見ているかは選べない。だから評価に一喜一憂するより、見られ方には限界があると知っておくことが大切です。

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忠疑淮南子視点評価是非立ち位置

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