長短経 / 詭信
齊伐燕、得十城。燕王使蘇秦說齊、齊歸燕十城。蘇秦還燕、人或毁之曰、“蘇秦左右賣國、反覆臣也、将作亂。”燕王意踈之、捨而不用。蘇秦恐被罪、入見王曰、“臣、東周之鄙人也、無尺寸之功、而王親拜之於廟、禮之於庭。今臣為王却齊之兵、而功得十城、宜以益親。今來而王不官臣者、人必有以不信傷臣於王者。且臣之不信、王之福也〔燕王亦甞謂蘇代曰、“寡人甚不喜訑者言也。”代對曰、“周地賤媒、為其兩譽也。之男家曰、‘女美’、之女家曰、‘男富’。然周之俗、不自為娶妻。且夫處女無媒、老且不嫁、舎媒而自衒弊而不售、順而無毁、則售而不弊者、惟媒耳。且事非權不立、非勢不成。夫使人坐受成事者、惟訑耳。訑、音土和反。〕
新字:斉伐燕、得十城。燕王使蘇秦説斉、斉帰燕十城。蘇秦還燕、人或毀之曰、“蘇秦左右売国、反覆臣也、将作乱。”燕王意疎之、捨而不用。蘇秦恐被罪、入見王曰、“臣、東周之鄙人也、無尺寸之功、而王親拝之於廟、礼之於庭。今臣為王却斉之兵、而功得十城、宜以益親。今来而王不官臣者、人必有以不信傷臣於王者。且臣之不信、王之福也〔燕王亦甞謂蘇代曰、“寡人甚不喜訑者言也。”代対曰、“周地賤媒、為其両誉也。之男家曰、‘女美’、之女家曰、‘男富’。然周之俗、不自為娶妻。且夫処女無媒、老且不嫁、舎媒而自衒弊而不售、順而無毀、則售而不弊者、惟媒耳。且事非権不立、非勢不成。夫使人坐受成事者、惟訑耳。訑、音土和反。〕
書き下し
斉、燕を伐ちて十城を得。燕王、蘇秦をして斉に説かしめ、斉は燕に十城を帰す。蘇秦燕に還る。人或いは之を毀りて曰く「蘇秦は左右に国を売る、反覆の臣なり。将に乱を作さんとす」と。燕王意に之を疎んじ、捨てて用いず。蘇秦罪を被らんことを恐れ、入りて王に見えて曰く「臣は東周の鄙人なり。尺寸の功無くして、王親ら之を廟に拝し、之を庭に礼す。今、臣は王の為に斉の兵を却け、而して功は十城を得たり。宜しく以て益々親しむべし。今来たりて王臣を官せざる者は、人必ず不信を以て臣を王に傷つくる者有らん。且つ臣の不信は、王の福なり〔燕王も亦た嘗て蘇代に謂いて曰く「寡人甚だ訑者の言を喜ばず」と。代対えて曰く「周の地は媒を賤しむ。其の両誉するが為なり。男家に之きては女美しと曰い、女家に之きては男富めりと曰う。然れども周の俗は、自ら妻を娶らず。且つ夫れ処女媒無くんば、老いて且つ嫁がず。媒を舎てて自ら衒えば、弊れて售れず。順にして毀無く、則ち售れて弊れざる者は、惟だ媒のみ。且つ事は権に非ずんば立たず、勢いに非ずんば成らず。夫れ人をして坐して成事を受けしむる者は、惟だ訑のみ」と。訑は、音土和の反〕。
現代語訳
斉が燕を伐って十の城を取った。燕王は蘇秦に斉を説得させ、斉は燕に十の城を返した。蘇秦が燕に戻ると、ある人が蘇秦をそしって言った。「蘇秦はあちこちで国を売る、寝返りの臣です。いずれ乱を起こすでしょう」。燕王は心の中で蘇秦を疎んじ、捨てて用いなかった。蘇秦は罪に問われるのを恐れ、王に会って言った。「私は東周の田舎者で、わずかな功もないのに、王は自ら廟で拝礼し、朝廷で礼遇してくださいました。いま私は王のために斉の兵を退け、十の城を取り戻す功を立てました。ますます親しまれてよいはずです。それなのに戻ってきても官職をくださらないのは、きっと誰かが私を信のない者だと王に讒言したのでしょう。しかし私に信がないことは、王の福なのです〔燕王もかつて蘇代に「私は口のうまい者の言葉が大嫌いだ」と言った。蘇代は答えた。「周の地では仲人を卑しみます。両方を褒めるからです。男の家に行けば娘は美しいと言い、女の家に行けば男は金持ちだと言う。それでも周の風習では、自分で妻をめとることはしません。しかも娘は仲人がいなければ、年老いても嫁げません。仲人を捨てて自分を売り込めば、傷ものになって売れません。すんなりと悪口も立たず、傷つかずに縁がまとまるのは、仲人がいるからです。しかも事は権道でなければ立たず、勢いでなければ成りません。人を座ったまま成功させるのは、口のうまい者だけです」。訑の音はタ〕。
解説
この章句が説くこと
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