長短経 / 釣情
智伯從韓魏之君伐趙、韓魏用趙臣張孟談之計、隂謀叛智伯。張孟談因朝智伯、遇智果于轅門之外。智果入見智伯、曰、「二主殆将有變、臣遇張孟談、察其志矜而行髙、見二君色動而變、必背君矣。」智伯不從、智果出、遂更其姓為輔氏。張孟談入見趙襄子曰、「臣遇智果於轅門之外、其視有疑臣之心。入見智伯而更其族、今暮不擊、必後之矣。」襄子曰、「諾!」因與韓魏殺守隄之吏、决水灌智伯軍、此情可以視釣也。
新字:智伯従韓魏之君伐趙、韓魏用趙臣張孟談之計、陰謀叛智伯。張孟談因朝智伯、遇智果于轅門之外。智果入見智伯、曰、「二主殆将有変、臣遇張孟談、察其志矜而行高、見二君色動而変、必背君矣。」智伯不従、智果出、遂更其姓為輔氏。張孟談入見趙襄子曰、「臣遇智果於轅門之外、其視有疑臣之心。入見智伯而更其族、今暮不撃、必後之矣。」襄子曰、「諾!」因与韓魏殺守堤之吏、決水灌智伯軍、此情可以視釣也。
書き下し
智伯、韓・魏の君を従えて趙を伐つ。韓・魏は趙の臣張孟談の計を用いて、陰かに智伯に叛かんことを謀る。張孟談因りて智伯に朝し、智果に轅門の外に遇う。智果入りて智伯に見えて曰く「二主殆ど将に変有らんとす。臣張孟談に遇うに、其の志矜りて行い高きを察し、二君を見るに色動きて変ず。必ず君に背かん」と。智伯従わず。智果出でて、遂に其の姓を更めて輔氏と為す。張孟談入りて趙襄子に見えて曰く「臣、智果に轅門の外に遇う。其の視るに臣を疑うの心有り。入りて智伯に見えて其の族を更む。今暮に撃たずんば、必ず之に後れん」と。襄子曰く「諾」と。因りて韓・魏と守隄の吏を殺し、水を決して智伯の軍に灌ぐ。此れ情は視を以て釣るべきなり。
現代語訳
智伯は韓と魏の君主を従えて趙を伐った。韓と魏は趙の臣張孟談の計を用いて、ひそかに智伯に背こうと謀った。張孟談が智伯のもとに参上したとき、陣営の門の外で智果に出会った。智果は中に入って智伯に言った。「二人の君主はおそらく変心しようとしています。私は張孟談に出会いましたが、その意気は誇らしげで足取りは高く、二人の君主を見ると顔色が動いて変わっていました。必ず殿に背きます」。智伯は聞き入れなかった。智果は退出すると、姓を改めて輔氏とした。張孟談は趙襄子のもとに戻って言った。「私は陣営の門の外で智果に出会いましたが、その目つきには私を疑う心がありました。そして智伯に会った後、一族の姓を改めました。今夜撃たなければ、必ず後れを取ります」。襄子は「よし」と言い、韓・魏とともに堤防を守る役人を殺し、水を決壊させて智伯の軍に注いだ。これは、心を視線で釣ることができる例である。
解説

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