長短経 / 懼戒
隋髙祖崩、葬于太陵。初疾也、璽書徵漢王諒〔諒時鎮并州。〕諒聞髙祖崩、流言楊素簒位、大懼、以為詐也。發兵自守、陰謀為亂、南襲蒲州、取之〔諒初反也、王頗説諒曰、「王之將吏家屬、盡在闗西、若用此等、即宜長驅深入、直據京師、所謂疾雷不及掩耳。若但欲割據舊齊之地、宜任東人。」諒不從其言、故敗也。〕司兵參軍裴文安説諒曰、「兵以拙速、不聞巧遲。今梓宫尚在仁夀、比其徵兵東進、動移旬朔。若驍勇萬騎、卷甲宵征直指長安、不盈十日、不逞之徒、擢授髙位、付以心膂、共守京城、則山東府縣非彼之有。然後大王鼓行而西、聲勢一接、天下可指麾而定也。」
新字:隋高祖崩、葬于太陵。初疾也、璽書徴漢王諒〔諒時鎮并州。〕諒聞高祖崩、流言楊素簒位、大懼、以為詐也。発兵自守、陰謀為乱、南襲蒲州、取之〔諒初反也、王頗説諒曰、「王之将吏家属、尽在関西、若用此等、即宜長駆深入、直拠京師、所謂疾雷不及掩耳。若但欲割拠旧斉之地、宜任東人。」諒不従其言、故敗也。〕司兵参軍裴文安説諒曰、「兵以拙速、不聞巧遅。今梓宮尚在仁寿、比其徴兵東進、動移旬朔。若驍勇万騎、巻甲宵征直指長安、不盈十日、不逞之徒、擢授高位、付以心膂、共守京城、則山東府県非彼之有。然後大王鼓行而西、声勢一接、天下可指麾而定也。」
書き下し
隋の高祖崩じ、太陵に葬る。初め疾むや、璽書もて漢王諒を徴す〔諒は時に并州に鎮す〕。諒、高祖の崩ずるを聞き、流言に楊素位を簒うと。大いに懼れ、以て詐りと為す。兵を発して自ら守り、陰かに乱を為さんことを謀り、南のかた蒲州を襲いて之を取る〔諒の初めて反するや、王頍、諒に説きて曰く「王の将吏の家属は、尽く関西に在り。若し此等を用いば、即ち宜しく長駆して深く入り、直ちに京師に拠るべし。所謂疾雷耳を掩うに及ばず。若し但だ旧斉の地を割拠せんと欲せば、宜しく東人に任ずべし」と。諒其の言に従わず、故に敗るるなり〕。司兵参軍裴文安、諒に説きて曰く「兵は拙速を聞くも、巧遅を聞かず。今、梓宮尚お仁寿に在り。其の兵を徴して東に進むに比べば、動もすれば旬朔を移さん。若し驍勇万騎、甲を巻きて宵に征き、直ちに長安を指さば、十日に盈たず。不逞の徒に、高位を擢授し、付するに心膂を以てし、共に京城を守らば、則ち山東の府県は彼の有に非ず。然る後に大王、鼓行して西せば、声勢一たび接して、天下は指麾して定むべし」と。
現代語訳
隋の高祖文帝が崩じ、太陵に葬られた。はじめ病になったとき、璽書で漢王楊諒を呼び寄せた〔楊諒は当時并州を守っていた〕。楊諒は高祖が崩じたと聞き、楊素が位を奪ったという流言もあって大いに恐れ、呼び出しを偽りだと考えた。兵を出して自ら守り、ひそかに乱を謀り、南の蒲州を襲って取った〔楊諒が反乱を起こしたはじめ、王頍は楊諒に説いた。「王の将や役人の家族は皆関西にいます。この者たちを使うなら、長駆して深く入り、まっすぐ都を押さえるべきです。いわゆる疾雷耳を掩うに及ばず、です。もし旧斉の地に割拠するだけなら、東の人に任せるべきです」。楊諒はこの言に従わなかったので敗れた〕。司兵参軍の裴文安は楊諒に説いた。「兵は拙くても速いのがよいと聞きますが、巧みでも遅いのがよいとは聞きません。いま先帝の棺はまだ仁寿宮にあります。朝廷が兵を集めて東へ進むには、ともすれば十日か一月はかかります。もし精鋭の騎兵一万が鎧を巻いて夜通し進み、まっすぐ長安を目指せば、十日もかかりません。不満を持つ者たちに高い位を授けて腹心とし、ともに都を守らせれば、山東の州県は向こうのものではなくなります。そのうえで大王が太鼓を鳴らして西へ進めば、勢いが一度触れただけで、天下は指さすだけで定まります」。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』懼戒諒従わず、乃ち親ら大軍を率いて、并・介の間に屯す。上之を聞きて大いに懼れ、賀若弼を召して之を議す。弼曰く「漢王は先帝の子、陛下の弟なり。連率の重きに居り、方岳の任を総べ、声名震響し、天下の服する所と為る。其の事を挙ぐること畢れり。然り而して進取の策に三有り。長駆して関に入り、直ちに京師に拠り、西は六軍を拒ぎ、東は山東を収むるは、上策なり。是くの如くんば、則ち天下未だ量るべからず。大軍を蒲州に頓め、五千騎をして潼関を閉ざさしめ、斉の旧境を復し、拠りて之に都するは、中策なり。是くの如くんば、力を以て争わん〔議に曰く、斉の旧境は、北斉の時の境土を謂うなり。今の青州の斉に非ざるなり〕。若し親ら太原に居り、徒だ其の将を遣わして来たらしむるは、下策なり。是くの如くんば、擒と成らんのみ」と。上曰く「公、試みに朕の為に之を籌れ。計将に何くにか出でんとする」と。弼曰く「蕭摩訶は亡国の将にして、与に大事を図るべからず。裴文安は少年にして賢なりと雖も、任用せられず。余は皆群小にして、妻孥を顧恋し、苟くも自ら安んぜんことを求め、遠く渉ること能わず。必ず軍を遣わして来たりて蒲州を攻めしめ、親ら太原に居りて、之が窟穴と為さん。臣以為えらく必ず下策に出でん」と。果たして弼の籌る所の如し。乃ち楊素を以て将と為し、之を破る。
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『長短経』懼戒隋の煬帝初め唐の高祖を猜忌す。之を知りて、常に危懼を懐く〔唐公、太原留守と為る。煬帝遼東より還り、唐公を徴して行在所に詣らしむ。患いに遇いて瘳えず、未だ時に謁するを得ず。唐公の外甥王氏、後宮に充選せらる。煬帝問いて曰く「汝の舅の来たること何ぞ遅き」と。甥、実を以て対う。帝曰く「死を得べきや否や」と。高祖之を知り、毎に危懼を懐くなり〕。太原留守と為り、討撃利あらざるを以て、煬帝の譴むる所と為らんことを恐れ、甚だ之を憂う。時に太宗従いて軍中に在り、隋の将に亡びんとするを知り、潜かに義挙を図り、以て天下を安んぜんとす。乃ち進みて曰く「大人何ぞ之を憂うることの甚だしきや。当今、主上無道にして、百姓愁怨し、城門の外は皆已に賊と為る。独り小節を守らば、必ず且に旦暮に死亡せんとす。若し義兵を起こさば、実に人の欲に当たる。且つ晋陽は用武の地にして、食足り兵足る。大人之に居るは、此れ乃ち天授なり。正に機に因りて禍を転じ、以て功業に就くべし。既に天与うるに取らずんば、之を憂うるも何の益かあらん」と。
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『長短経』懼戒隋の煬帝、親ら六軍を御して高麗を伐つ。礼部尚書楚国公楊玄感、黎陽に拠りて反す。李密、玄感に説きて曰く「天子遠く遼左を征し、地は幽州を去ること懸隔千里。南に巨海の限り有り、北に胡戎の患い有り。中間の一道、路極めて艱危なり。今、公兵を擁し、其の不意に出で、長駆して薊に入り、直ちに其の喉を扼せば、前に高麗有り、退くに帰路無し。旬日に過ぎずして、資糧必ず尽きん。麾を挙げて一たび召さば、其の衆自ら降らん。戦わずして克つは、計の上なり〔一本に云う、今、車駕遼東に在りて、未だ斯の挙を聞かず。万余人を分かちて電発し、臨渝関に捍ぎ、其の帰路を絶たば、一月を経ずして、倉廩必ず竭きん。東は大敵を拒ぎ、西は我が師に迫られ、進むに依る所無く、退くに拠る所無し。百万の衆も、魚と為さしむべし。此れ戦わずして人を屈するの上策なり〕。
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『長短経』懼戒〔議に曰く、初め、漢王陰かに乱を為さんことを謀り、声して素を討たんと言う。司馬皇甫誕諫めて曰く「大隋天下を拠有すること二十余載、兆庶乂安し、揺動し難し、一なり。万姓乱を厭い、人は安楽を思う。舜・禹更に生まると雖も、其の望み未だ従わず、二なり。太子は聡明神武にして、名は図讖に応ず。素は曽て轂を捧ぐることも得ず、庸ぞ敢えて心を生ぜん、三なり。方今、諸侯王は州郡に列守し、表裏相制し、勢い挙ぐべからず、四なり。茲の四固を以て、天下に鎮臨す。禍乱を興すを得ることは、未だ之を前に聞かざるなり」と。漢王従わず、故に敗る。此に由りて之を観れば、天下に乱を思うの心、土崩の釁無くんば、呉・楚の衆有りと雖も、猶お成すこと能わず。而るを況んや么麼に於いてをや。故に先王其の徳音を貊かにし、民の隠を勤恤する者は、蓋し是の為なり。〕
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『長短経』懼戒裴寂の計を用い、伊尹の太甲を放ち、霍光の昌邑を廃する故事に准い、煬帝を尊びて太上皇と為し、代王侑を立てて以て隋室を安んじ、檄を諸郡に伝えて、以て義挙を彰らかにす。秋七月、精甲三万を以て、西のかた関中を図る。高祖白旗に仗り、衆に太原の野に誓い、師を引きて路に即き、遂に隋族を亡ぼし、我が区夏を造る。