長短経 / 懼戒
熙先重曰、「昔毛琢竭節、不容于魏武、張溫畢議、見逐于孫權。彼二人者、國之信臣、時之俊乂、豈疵瑕暴露、言行玷缺、然後至于禍哉?皆以亷直勁正、困于邪枉、髙行妙節、不得久容。丈人之于本朝、不深于二主、人間雅譽、有過于兩臣。讒夫側目、為日久矣。比肩競逐、庸可遂乎!殷鐵一言、而劉班碎首、彭城斥逐徐童見疑。彼豈父母之讐、萬代之怨?尋戈㧞棘、自幼而然、所爭不過榮名、勢利、先後之間耳。及其末也、唯恐䧟之不深、發之不早。戮及百口、猶曰不厭。是豈書籍逺事可為寒心悼慄者也!今建大勲奉賢哲、圖難于易、以安易危、比之太山而去累卵、何苦不就?
新字:熙先重曰、「昔毛琢竭節、不容于魏武、張温畢議、見逐于孫権。彼二人者、国之信臣、時之俊乂、豈疵瑕暴露、言行玷欠、然後至于禍哉?皆以廉直勁正、困于邪枉、高行妙節、不得久容。丈人之于本朝、不深于二主、人間雅誉、有過于両臣。讒夫側目、為日久矣。比肩競逐、庸可遂乎!殷鉄一言、而劉班砕首、彭城斥逐徐童見疑。彼豈父母之讐、万代之怨?尋戈抜棘、自幼而然、所争不過栄名、勢利、先後之間耳。及其末也、唯恐陥之不深、発之不早。戮及百口、猶曰不厭。是豈書籍遠事可為寒心悼慄者也!今建大勲奉賢哲、図難于易、以安易危、比之太山而去累卵、何苦不就?
書き下し
熙先重ねて曰く「昔、毛玠は節を竭くすも、魏武に容れられず。張温は議を畢くすも、孫権に逐わる。彼の二人の者は、国の信臣、時の俊乂なり。豈に疵瑕暴露し、言行玷欠して、然る後に禍に至らんや。皆廉直勁正を以て、邪枉に困しみ、高行妙節は、久しく容れらるるを得ず。丈人の本朝に於けるは、二主より深からず。人間の雅誉は、両臣に過ぐる有り。讒夫の側目すること、日を為すこと久し。肩を比べて競逐す、庸ぞ遂ぐべけんや。殷鉄の一言にして、劉班首を碎き、彭城斥逐せられて、徐童疑わる。彼豈に父母の讐、万代の怨みならんや。戈を尋ね棘を抜くは、幼きより然り。争う所は栄名・勢利・先後の間に過ぎざるのみ。其の末に及ぶや、唯だ之を陥るることの深からず、之を発くことの早からざるを恐る。戮は百口に及ぶも、猶お厭かずと曰う。是れ豈に書籍の遠事にして、寒心悼慄すべき者ならんや。今、大勲を建て賢哲を奉じ、難きを易きに図り、易きを以て危うきを安んず。之を太山に比して累卵を去る。何ぞ苦しみて就かざる。
現代語訳
孔熙先は重ねて言った。「昔、毛玠は節を尽くしたのに魏の武帝に受け入れられず、張温は議を尽くしたのに孫権に追われました。二人は国の信頼された臣で、時代の俊才でした。欠点が暴かれたり言行に傷があったりしたから禍に遭ったのでしょうか。どちらも清廉で剛直だったために邪な者に苦しめられ、高い行いと美しい節操が長くは受け入れられなかったのです。あなたと今の朝廷との関係は、あの二人と主君ほど深くはありません。世間の評判は二人以上です。讒言する者が横目で見るようになって久しい。肩を並べて競い合う中で、無事に済むでしょうか。殷景仁の一言で劉湛は首を砕かれ、彭城王が追放されると徐湛之が疑われました。父母の仇や万代の恨みだったでしょうか。武器を取り合いいばらを抜き合うのは幼いころからのことで、争ったのは名誉と権勢と順番の違いにすぎません。それが最後には、陥れるのが浅いのを恐れ、暴くのが遅いのを恐れるまでになる。百人の家族を殺してもまだ足りないと言う。これは書物の中の遠い話ではなく、心が冷え震えることです。いま大功を立てて賢哲を奉じ、難しいことをたやすいうちに図り、たやすいことで危うさを安んずる。泰山に乗って積み上げた卵の危うさから離れるようなものです。何を苦しんで取りかからないのですか。
解説
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