長短経 / 懼戒
晉懐帝時、遼東太守龎本私憾東夷校尉李臻、鮮卑索連、木津等、為臻興義、實因而為亂、遂攻䧟諸將。大單于慕容廆之長子翰言于廆曰、「臣聞、求諸侯莫若勤王。自古有為之君靡不仗此以成事業者也。今連、津䟦扈、王師覆敗、蒼生屠膾、豈甚此乎?竪子外以龎本為名、内實幸而為寇、遼東傾没乘便二周、中原兵亂、州師屢敗、勤王仗義、此其時也!單于宜明九伐之威、救倒懸之命、數連、津之罪、合義兵以誅之。上則興復遼邦、下則并呑二部、忠義彰于本朝、私利歸于我國。此則吾鴻漸之始也、終可以得志于諸侯。」廆善之、遂誡嚴討連、津、斬之、立遼東郡。
新字:晋懐帝時、遼東太守龐本私憾東夷校尉李臻、鮮卑索連、木津等、為臻興義、実因而為乱、遂攻陥諸将。大単于慕容廆之長子翰言于廆曰、「臣聞、求諸侯莫若勤王。自古有為之君靡不仗此以成事業者也。今連、津䟦扈、王師覆敗、蒼生屠膾、豈甚此乎?竪子外以龐本為名、内実幸而為寇、遼東傾没乗便二周、中原兵乱、州師屡敗、勤王仗義、此其時也!単于宜明九伐之威、救倒懸之命、数連、津之罪、合義兵以誅之。上則興復遼邦、下則并呑二部、忠義彰于本朝、私利帰于我国。此則吾鴻漸之始也、終可以得志于諸侯。」廆善之、遂誡厳討連、津、斬之、立遼東郡。
書き下し
晋の懐帝の時、遼東太守龐本、私かに東夷校尉李臻を憾む。鮮卑の索連・木津等、臻の為に義を興すも、実は因りて乱を為し、遂に諸将を攻め陥る。大単于慕容廆の長子翰、廆に言いて曰く「臣聞く、諸侯を求むるは王に勤むるに如くは莫し、と。古より有為の君、此に仗りて以て事業を成さざる者は靡し。今、連・津跋扈し、王師覆敗し、蒼生屠膾せらる。豈に此より甚だしきもの有らんや。豎子は外は龐本を以て名と為し、内は実に幸いとして寇を為す。遼東傾没し、便に乗ずること二周、中原兵乱し、州師屢々敗る。王に勤め義に仗るは、此れ其の時なり。単于宜しく九伐の威を明らかにし、倒懸の命を救い、連・津の罪を数え、義兵を合わせて以て之を誅すべし。上は則ち遼邦を興復し、下は則ち二部を并呑す。忠義は本朝に彰れ、私利は我が国に帰す。此れ則ち吾が鴻漸の始めなり。終に以て志を諸侯に得べし」と。廆之を善しとし、遂に厳を誡めて連・津を討ち、之を斬り、遼東郡を立つ。
現代語訳
晋の懐帝の時、遼東太守龐本はひそかに東夷校尉李臻を恨んでいた。鮮卑の索連・木津らは李臻のために義兵を起こすと称したが、実はそれに乗じて乱を起こし、ついに諸将を攻め破った。大単于慕容廆の長子慕容翰は父に言った。「諸侯の支持を得たいなら、王のために尽くすのがいちばんだと聞きます。昔から事を成した君主で、これに頼らずに事業を成した者はいません。いま索連・木津がのさばり、朝廷の軍は敗れ、民は殺されて切り刻まれています。これよりひどいことがありましょうか。あの小僧どもは表向き龐本を討つことを名目にしながら、内実は好機とばかりに略奪しています。遼東が崩れて二年、中原は兵乱で州の軍は何度も敗れています。王のために尽くし義に拠るのは、まさに今です。単于は九伐の威を示して、逆さ吊りのように苦しむ民の命を救い、索連・木津の罪を数えて義兵を合わせて誅すべきです。上は遼東を再興し、下は二つの部族を併せられます。忠義は朝廷に明らかになり、私利は我が国に帰す。これが我々が大きく飛躍する始まりで、最後は諸侯の間で志を遂げられます」。慕容廆はもっともだとし、軍を引き締めて索連・木津を討って斬り、遼東郡を立てた。
解説

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