史記 / 呉王濞列伝
孝文時,吳太子入見,得侍皇太子飲博。吳太子師傅皆楚人,輕悍,又素驕,博,爭道,不恭,皇太子引博局提吳太子,殺之。於是遣其喪歸葬。至吳,吳王慍曰:「天下同宗,死長安即葬長安,何必來葬為!」復遣喪之長安葬。吳王由此稍失藩臣之禮,稱病不朝。京師知其以子故稱病不朝,驗問實不病,諸吳使來,輒系責治之。吳王恐,為謀滋甚。及後使人為秋請,上復責問吳使者,使者對曰:「王實不病,漢系治使者數輩,以故遂稱病。且夫『察見淵中魚,不祥』。今王始詐病,及覺,見責急,愈益閉,恐上誅之,計乃無聊。唯上棄之而與更始。」於是天子乃赦吳使者歸之,而賜吳王几杖,老,不朝。吳得釋其罪,謀亦益解。
新字:孝文時,呉太子入見,得侍皇太子飲博。呉太子師傅皆楚人,軽悍,又素驕,博,争道,不恭,皇太子引博局提呉太子,殺之。於是遣其喪帰葬。至呉,呉王慍曰:「天下同宗,死長安即葬長安,何必来葬為!」復遣喪之長安葬。呉王由此稍失藩臣之礼,称病不朝。京師知其以子故称病不朝,験問実不病,諸呉使来,輒系責治之。呉王恐,為謀滋甚。及後使人為秋請,上復責問呉使者,使者対曰:「王実不病,漢系治使者数輩,以故遂称病。且夫『察見淵中魚,不祥』。今王始詐病,及覚,見責急,愈益閉,恐上誅之,計乃無聊。唯上棄之而与更始。」於是天子乃赦呉使者帰之,而賜呉王几杖,老,不朝。呉得釈其罪,謀亦益解。
書き下し
孝文の時、呉の太子入見し、皇太子に侍して飲博するを得たり。呉の太子の師傅は皆楚人にして、軽悍、又素より驕る。博して、道を争ひ、恭ならず。皇太子博局を引きて呉の太子に提ち、之を殺す。是に於て其の喪を遣はして帰葬せしむ。呉に至る。呉王慍りて曰く、「天下は同宗なり。長安に死せば即ち長安に葬れ。何ぞ必ずしも来り葬るを為さん」と。復た喪を遣はして長安に之きて葬らしむ。呉王此に由りて稍く藩臣の礼を失ひ、病と称して朝せず。京師其の子の故を以て病と称して朝せざるを知り、験問するに実は病まず。諸々の呉の使来れば、輒ち系ぎて責めて之を治む。呉王恐れ、謀を為すこと滋々甚だし。後に人をして秋請を為さしむるに及び、上復た呉の使者を責問す。使者対へて曰く、「王は実は病まず。漢使者数輩を系治す。故を以て遂に病と称す。且つ夫れ『淵中の魚を察見するは、不祥なり』と。今王始め病を詐り、覚らるるに及びて、責めらるること急なり。愈々益々閉ぢ、上の之を誅せんことを恐る。計乃ち聊ずる無し。唯だ上之を棄てて与に更始せよ」と。是に於て天子乃ち呉の使者を赦して之を帰し、而して呉王に几杖を賜ひ、老いたれば、朝せざらしむ。呉其の罪を釈かるるを得て、謀も亦益々解く。
現代語訳
孝文帝の時、呉の太子が都に入って謁見し、皇太子(後の景帝)の相手をして酒を飲み双六をすることになった。呉の太子の守り役たちは皆楚の人で、軽はずみで荒々しく、太子自身ももともとおごっていた。双六で駒の進め方を争い、皇太子に対して不遜な態度をとったので、皇太子は双六の盤を振り上げて呉の太子を打ち、殺してしまった。そこで遺体を呉に送り返して葬らせようとした。遺体が呉に着くと、呉王は怒って言った。「天下の劉氏は同じ一族だ。長安で死んだのなら長安に葬ればよい。どうしてわざわざ送り返して葬らせるのか」。そして再び遺体を長安に送って葬らせた。呉王はこの時から次第に諸侯としての礼を失い、病気と称して参朝しなくなった。都では、呉王が息子のことで病気と称して参朝しないのだと知り、取り調べると実際は病気ではなかったので、呉の使者が来るたびに捕らえて責め立て処罰した。呉王は恐れ、謀反の計画はますます深まった。その後、呉王が人をやって秋の参朝の代理をさせた時、天子はまた呉の使者を問い詰めた。使者は答えた。「王は実は病気ではない。漢が使者を何人も捕らえて処罰したので、とうとう病気と称するようになったのだ。そもそも『深い淵の中の魚まで見通すのは不吉である』と言う。今、王は初め病気と偽り、それが発覚して厳しく責められたので、ますます閉じこもり、陛下に誅殺されることを恐れて、どうしてよいかわからずにいる。どうか陛下には過去のことは捨て置き、改めて新たに始めていただきたい」。そこで天子は呉の使者を赦して帰らせ、呉王に肘掛けと杖を賜って、老齢であるから参朝しなくてよいとした。呉は罪を許されたので、謀反の計画もしだいに緩んでいった。
解説
この章句が説くこと
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史記 呉王濞列伝晁錯太子の家令と為り、太子に幸せらるるを得て、数々従容として呉の過の削るべきを言ふ。数々上書して孝文帝に説く。文帝寛にして、罰するに忍びず。此を以て呉日に益々横なり。孝景帝即位するに及び、錯御史大夫と為り、上に説きて曰く、「昔高帝初めて天下を定め、昆弟少く、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王を王として斉七十余城に王たらしめ、庶弟元王楚四十余城に王たり、兄の子濞呉五十余城に王たり。三庶孽を封じて、天下の半ばを分かつ。今呉王は前に太子の郄有り、詐りて病と称して朝せず。古法に於て当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜ふ。徳至って厚し。当に過を改めて自ら新たにすべし。乃ち益々驕溢し、山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の亡人を誘ひ、乱を作さんことを謀る。今之を削るも亦反し、之を削らざるも亦反す。之を削れば、其の反すること亟かにして、禍小なり。削らざれば、反すること遅くして、禍大なり」と。三年冬、楚王朝す。晁錯因りて言ふ、楚王戊往年薄太后の為に服するに、私かに服舎に姦すと。之を誅せんことを請ふ。詔して赦し、罰して東海郡を削る。因りて呉の豫章郡・会稽郡を削る。前二年に及び趙王罪有り、其の河間郡を削る。膠西王卬爵を売るに姦有るを以て、其の六県を削る。漢廷の臣方に呉を削らんことを議す。呉王濞地を削らるること已む無きを恐れ、因りて此を以て謀を発し、事を挙げんと欲す。念ふに諸侯に与に計謀するに足る者無し。膠西王の勇にして、気を好み、兵を喜み、諸斉皆憚り畏るるを聞く。是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂ましむ。文書無く、口もて報じて曰く、「呉王不肖にして、宿夕の憂有り。敢へて自ら外にせず、其の驩心を喩さしむ」と。王曰く、「何を以てか之に教ふる」と。高曰く、「今者主上姦に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。里語に之有り、『糠を舐りて米に及ぶ』と。
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『長短経』懼戒呉王濞、子の故を以て朝せず〔孝文帝の時、呉の太子入朝し、皇太子に侍して飲博し、道を争いて恭しからず。皇太子、博局を引きて呉の太子に投じ、之を殺す〕。削地の書至るに及び、是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂わしむ。文書無く、口もて報じて曰く「呉王不肖にして、宿夕の憂い有り。敢えて自ら外にせず、其の歓心を喩さしむ」と。王曰く「何を以てか之を教えん」と。高曰く「今者、主上は姦雄に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。語に之有りて曰く『糠を舐めて米に及ぶ』と。呉と膠西とは、名を知らるる諸侯なり。一時に察せられて、恐らくは安肆なるを得ざらん。呉王は身に内病有りて、朝請すること能わざること二十余年、常に疑われて以て自ら白す無きを患う。今、肩を脅し足を累ぬるも、猶お釈されざらんことを懼る。竊かに聞く、大王は爵事を以て謫有り、と。聞く所の諸侯の削地は、罪此に至らず。此れ恐らくは地を削らるるを得るのみならざらん」と。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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史記 呉王濞列伝今乃ち楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠と約従して反し、逆を為して道無く、兵を起こして以て宗廟を危うくし、大臣及び漢の使者を賊殺し、万民を迫劫し、無罪を夭殺し、民家を焼残し、其の丘冢を掘り、甚だ暴虐を為す。今卬等又重ねて逆にして道無く、宗廟を焼き、御物を鹵む。朕甚だ之を痛む。朕素服して正殿を避く。将軍其れ士大夫に勧めて反虜を撃たしめよ。反虜を撃つ者は、深く入りて多く殺すを功と為す。首を斬り虜を捕ふるに、比三百石以上の者は皆之を殺し、置く所有る無かれ。敢へて詔を議し及び詔の如くせざる者有らば、皆要斬せん」と。初め、呉王の淮を度るや、楚王と遂に西して棘壁に敗り、勝に乗じて前み、鋭きこと甚だし。梁の孝王恐れ、六将軍を遣はして呉を撃たしむるも、又梁の両将を敗り、士卒皆還りて梁に走る。梁数々使をして条侯に報じて救ひを求めしむるも、条侯許さず。又使をして条侯を上に悪しましむ。上人をして条侯に告げて梁を救はしむるも、復た便宜を守りて行かず。梁韓安国及び楚の死事の相の弟張羽をして将軍と為さしめ、乃ち頗る呉の兵を敗るを得たり。呉の兵西せんと欲するも、梁の城守堅く、敢へて西せず。即ち条侯の軍に走り、下邑に会す。戦はんと欲するも、条侯壁して、戦ふを肯ぜず。呉の糧絶え、卒饑ゑ、数々戦ひを挑み、遂に夜条侯の壁に奔り、東南を驚かす。条侯をして西北に備へしむ。果たして西北より入る。呉大いに敗れ、士卒多く饑ゑて死し、乃ち畔き散ず。是に於て呉王乃ち其の麾下の壮士数千人と夜亡げ去り、江を度りて丹徒に走り、東越に保る。東越の兵万余人可り、乃ち人をして亡卒を収聚せしむ。漢人をして利を以て東越に啗はしむ。東越即ち呉王を紿く。呉王出でて軍を労ふ。即ち人をして呉王を鏦殺せしめ、其の頭を盛りて、伝を馳せて以て聞す。呉王の子子華・子駒亡げて閩越に走る。
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『長短経』三国権是の後、呉王劉濞、子の故を以て反す。初め発するや、其の大将田禄伯曰く「兵屯聚して西し、他の奇道無くんば、以て功に就き難し。臣願わくは奇兵五万人を得て、別に江・淮に循いて上り、淮南・長沙を収め、武関に入りて、大王と会せん。此れも亦た一奇なり」と。呉王の太子諫めて曰く「王は反を以て名と為す。此の兵は以て人に藉し難し。人も亦た且に王に反せんとす」と。呉王許さず。其の少将桓将軍、復た呉王に説きて曰く「呉は歩兵多く、歩兵は険阻に利あり。漢は車騎多く、車騎は平地に利あり。願わくは大王、過ぐる所の城邑、下らずんば、宜しく棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食い、山河の険を阻みて、以て諸侯に令すべし。関に入ること無しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐ろに行き、留まりて城邑を下さば、漢の車騎至りて、梁・楚の郊に馳せ入り、事敗れん」と。王、諸老将に問う。老将曰く「此れ年少推鋒の計のみ。安んぞ大慮を知らん」と。呉王、桓将軍の計に従わず、乃ち自ら并せて其の兵を将いる。漢は太尉周亜夫を以て呉・楚を撃たしめ、亜夫其の父の客の計を用いて、遂に呉を敗る。〔客の計は覇紀の上に在り。〕
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史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
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