長短経 / 懼戒
社稷無常奉〔奉之無常、人言唯徳也。、〕君臣無常位、自古以然。故《詩》曰、「髙岸為谷、深谷為陵。」三后之姓、于今為庶、主所知也〔三后虞、夏、商也。〕在《易》卦、雷乗乾曰「大壯」□〔乾下震上、大壯。震在上、故曰、「雷乗乾」也。、〕天之道也〔乾為天子、震為諸侯、而在乾上。君臣易位、猶人臣强壯、若天上有雷也。〕政在季氏、于此君也、四公矣。民不知君、何以得國?是以為君、慎器與名〔器、車、服也。名、爵號也。、〕不可以假人。
新字:社稷無常奉〔奉之無常、人言唯徳也。、〕君臣無常位、自古以然。故《詩》曰、「高岸為谷、深谷為陵。」三后之姓、于今為庶、主所知也〔三后虞、夏、商也。〕在《易》卦、雷乗乾曰「大壮」□〔乾下震上、大壮。震在上、故曰、「雷乗乾」也。、〕天之道也〔乾為天子、震為諸侯、而在乾上。君臣易位、猶人臣強壮、若天上有雷也。〕政在季氏、于此君也、四公矣。民不知君、何以得国?是以為君、慎器与名〔器、車、服也。名、爵号也。、〕不可以仮人。
書き下し
社稷に常の奉無く〔之を奉ずること常無し。人は唯だ徳のみと言う〕、君臣に常の位無きは、古より以て然り。故に詩に曰く「高岸は谷と為り、深谷は陵と為る」と。三后の姓、今に庶と為ること、主の知る所なり〔三后は虞・夏・商なり〕。易の卦に在りて、雷の乾に乗るを大壮と曰う〔乾下震上は大壮なり。震上に在り、故に雷乾に乗ると曰う〕。天の道なり〔乾は天子たり、震は諸侯たり、而して乾の上に在り。君臣位を易うること、猶お人臣強壮なること、天上に雷有るが若きなり〕。政、季氏に在ること、此の君に於いて、四公なり。民は君を知らず。何を以て国を得ん。是を以て君たる者は、器と名とを慎み〔器は車服なり。名は爵号なり〕、以て人に仮すべからず」と。
現代語訳
社稷を奉じる者は常に同じではなく〔奉じる者は常に定まらない。人はただ徳だと言う〕、君臣の位も常に定まってはいない。昔からそうです。だから『詩経』に「高い岸は谷となり、深い谷は丘となる」とあります。虞・夏・商の三王朝の子孫が今は庶民であることは、あなたもご存じのとおりです〔三后は虞・夏・商〕。『易』の卦で、雷が天の上に乗るのを大壮といいます〔下が乾、上が震で大壮。震が上にあるので雷が乾に乗るという〕。これが天の道です〔乾は天子、震は諸侯で、それが乾の上にある。君臣が位を入れ替えるのは、臣下が強壮になって天の上に雷があるようなものだ〕。政治が季氏にあるのは、この君まで四代の公にわたります。民が君主を知らないのに、どうして国を保てましょう。だから君主たる者は、車や服といった器と、爵位や称号といった名を慎み〔器は車と服、名は爵号〕、人に貸してはならないのです」。
解説

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