長短経 / 三国権
安東將軍王渾撃横江、破之。龍驤將軍王濬克建平、丹陽二城。杜預又分遣輕兵八百、乗簟舡潛渡江、上樂郷岸、屯巴山、多張旗熾起火山上、出其不意。破公安時、諸將咸謂百年之冦、未可全克、且春水方生、難於持久、宜待来冬、更為大舉。預喻之曰、「昔樂毅藉濟西一戰以并強齊、今兵威已振、譬如破竹、數節之後、皆迎刃而解耳!抗表論之、上深然焉。」吴遣張悌、沈瑩濟江、瑩謂悌曰、「晋作戰舩於蜀乆矣、今傾國大動、萬里齊起、並悉益州之衆、浮江而下、我上流諸軍無有戒備、恐邉江諸城盡莫能禦也。晋之水軍必至於此、宜畜力待来、一戰若破之日、江西自清、上方雖壊可還取也。今渡江逆戰、勝不可保、若或摧喪、則大事去矣!」張悌不從、遂濟江、盡衆来逼、王師不擾、其衆退而兵亂、晋軍乗之、大破吴師。吴王皓乃降於濬、戍卒八萬、方舟鼔譟入於石頭。皓、面縛輿櫬、濬焚櫬、禮也。賜皓爵為歸命侯。〕
新字:安東将軍王渾撃横江、破之。竜驤将軍王濬克建平、丹陽二城。杜預又分遣軽兵八百、乗簟舡潜渡江、上楽郷岸、屯巴山、多張旗熾起火山上、出其不意。破公安時、諸将咸謂百年之寇、未可全克、且春水方生、難於持久、宜待来冬、更為大舉。預喩之曰、「昔楽毅藉済西一戦以并強斉、今兵威已振、譬如破竹、数節之後、皆迎刃而解耳!抗表論之、上深然焉。」呉遣張悌、沈瑩済江、瑩謂悌曰、「晋作戦舩於蜀久矣、今傾国大動、万里斉起、並悉益州之衆、浮江而下、我上流諸軍無有戒備、恐邉江諸城尽莫能禦也。晋之水軍必至於此、宜畜力待来、一戦若破之日、江西自清、上方雖壊可還取也。今渡江逆戦、勝不可保、若或摧喪、則大事去矣!」張悌不従、遂済江、尽衆来逼、王師不擾、其衆退而兵乱、晋軍乗之、大破呉師。呉王皓乃降於濬、戍卒八万、方舟鼓譟入於石頭。皓、面縛輿櫬、濬焚櫬、礼也。賜皓爵為帰命侯。〕
書き下し
安東将軍王渾、横江を撃ちて之を破る。龍驤将軍王濬、建平・丹陽の二城に克つ。杜預又た軽兵八百を分遣し、簟船に乗りて潜かに江を渡り、楽郷の岸に上り、巴山に屯し、多く旗幟を張り、火を山上に起こし、其の不意に出づ。公安を破る時、諸将咸な謂う、百年の寇、未だ全く克つべからず、且つ春水方に生じ、久しきを持すること難し、宜しく来冬を待ちて、更に大挙を為すべし、と。預之を喩して曰く「昔、楽毅は済西の一戦に藉りて以て強斉を并す。今、兵威已に振るう。譬えば竹を破るが如し。数節の後は、皆刃を迎えて解くるのみ」と。表を抗げて之を論ず。上深く然りとす。呉は張悌・沈瑩をして江を済らしむ。瑩、悌に謂いて曰く「晋は戦船を蜀に作ること久し。今、国を傾けて大いに動き、万里斉しく起こり、並びに益州の衆を悉くして、江に浮かびて下る。我が上流の諸軍は戒備有る無し。恐らくは辺江の諸城、尽く能く禦ぐ莫からん。晋の水軍必ず此に至らん。宜しく力を畜えて来たるを待ち、一戦して若し之を破るの日は、江西自ら清く、上方壊ると雖も還りて取るべきなり。今、江を渡りて逆え戦わば、勝ちは保つべからず。若し或いは摧喪せば、則ち大事去らん」と。張悌従わず、遂に江を済り、尽く衆を来たらしめて逼る。王師擾れず。其の衆退きて兵乱れ、晋軍之に乗じて、大いに呉の師を破る。呉王皓乃ち濬に降る。戍卒八万、方舟鼓譟して石頭に入る。皓は面縛輿櫬す。濬、櫬を焚く。礼なり。皓に爵を賜いて帰命侯と為す。〕
現代語訳
安東将軍王渾は横江を撃ち破った。龍驤将軍王濬は建平・丹陽の二城に勝った。杜預はさらに軽装の兵八百を分けて送り、竹で編んだ舟でひそかに長江を渡らせ、楽郷の岸に上がって巴山に陣取らせ、旗を多く張り山上で火を起こして、敵の不意を突いた。公安を破ったとき、諸将は皆、百年来の敵はまだ完全には倒せない、しかも春の増水が始まって長く持ちこたえるのは難しい、来年の冬を待って改めて大挙すべきだと言った。杜預は諭して言った。「昔、楽毅は済西の一戦に乗じて強国斉を併せた。いま我が軍の威はすでに振るっている。竹を割るようなもので、数節割った後は、刃を迎えて自然に裂けていくだけだ」。そして上表してこれを論じ、武帝も深くもっともだと思った。呉は張悌・沈瑩に長江を渡らせた。沈瑩は張悌に言った。「晋は蜀で長いこと戦船を造ってきた。いま国を傾けて大いに動き、万里にわたって一斉に起ち、益州の兵をすべて挙げて長江を下ってくる。我が上流の軍には備えがない。川沿いの城はどれも防げないだろう。晋の水軍は必ずここに来る。力を蓄えて待ち、一戦で破れば、長江の西は自然に清まり、上流が崩れていても取り返せる。いま長江を渡って迎え撃てば、勝ちは保証できない。もし打ち砕かれれば、大事は終わりだ」。張悌は従わず、長江を渡って全軍で迫った。晋軍は乱れなかった。呉の兵は退くときに乱れ、晋軍はそれに乗じて呉軍を大いに破った。孫皓は王濬に降伏した。王濬の兵八万は船を並べ太鼓を鳴らして石頭城に入った。孫皓は後ろ手に縛られ棺を車に載せて降り、王濬は棺を焼いた。礼にかなったことである。孫皓には帰命侯の爵位が与えられた。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』三国権呉は江に縁りて国を為し、内地有る無く、東西数千里、藩籬を以て自ら恃む。敵する所の者大にして、寧息有る無し。孫皓は情を恣にし意に任せ、下と与に忌むこと多し。名臣重将も、復た自ら信ぜず。是を以て孫秀の徒、皆逼らるるを畏れて至る。臣は朝に疑い、士は野に困しみ、保世の計、一定の心有る無し。平常の日にも猶お去就を懐く。兵臨むの際は、必ず応ずる者有らん。終に力を斉しくして死を致すこと能わざること、已に知るべきなり。其の俗は急速にして、久しきを持すること能わず。弓弩戟楯は中国に如かず。唯だ水戦のみ是れ其の便とする所なり。一たび其の地に入らば、則ち長江は復た固めとする所に非ず。還りて城池を保たば、則ち長を去りて短に入る。而して官軍懸かに進まば、人に節を致すの志有り。呉人は其の地に戦い、城に憑るの心有り。此くの如くんば、軍は時を逾えずして、克つこと必すべし」と。帝深く焉を納る。乃ち王濬等をして呉を滅ぼさしむ。天下、書は文を同じくし、車は軌を同じくす。
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『長短経』三国権権薨ずるに至り、皓位に即き、淫侈を窮極し、蒸人を割剥し、姦回を崇信し、諫輔を賊虐す。晋の世祖、杜預等をして呉を伐たしめ、之を滅ぼす。〔議に曰く、昔、魏の武侯、西河に浮かび、顧みて呉起に謂いて曰く「山河の固め、此れ魏国の宝なり」と。呉起対えて曰く「昔、三苗氏は洞庭を左にし彭蠡を右にするも、徳義修まらず、禹之を滅ぼす。夏桀の君は、河済を左にし太華を右にし、伊闕其の南に在り、羊腸其の北に在るも、仁政修まらず、湯之を放つ。此に由りて之を観れば、徳に在りて険に在らず」と。今、孫皓は父祖の資に席り、天阻の固め有り。西は巫峡を距て、東は滄海を負い、長江其の区宇を判ち、峻山其の封域を帯ぶ。地は方幾万里、戟を荷う者将に百万ならんとす。而して一朝甲を棄て、人に面縛す。則ち徳に在るの言は、不刊の典と為すか。
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『長短経』三国権陸抗将に死せんとし、呉王皓に言いて曰く「西陵・建平は国の藩表にして、処は上流に在り、敵を二境に受く。臣の父遜、昔、没するに垂として言を陳ぶ、西陵は国の西門なり。如し其れ虞有らば、当に国を挙げて之を争うべし、と。臣愚以為えらく、諸侯王は幼沖にして未だ嘗て事えず。乞う、簡閲して一切、以て疆場を輔けよ」と。晋の南征大将軍羊祜来朝し、密かに伐呉の計を陳ぶ。王濬をして船を蜀に治めしむ。方舟百余歩、皆城郭と為し、門に楼櫓を施し、首に怪獣を画き、以て江神を懼れしむ。二千余人を容れ、皆馬を馳せて往還す。柹の呉に流るるに及び、建平太守吾彦、其の流柹を取りて呉王に呈して曰く「晋必ず呉を攻むるの計有り。宜しく建平の兵を増すべし。建平下らずんば、終に敢えて江を渡らじ」と。呉王皓従わず。彦乃ち輒ち鉄鎖を為り、之に錐刺を加えて、以て江を断ち、我を阻む。濬之を聞き、乃ち大筏を為り、草を縛りて人と為し、流れに習う者を下に伏せ、竹炬を施して以て鎖錐を礙う。乃ち師を興す。果たして濬の策の如く、之を患えず。
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『長短経』三国権蜀の地は険しからざるに非ず。高山は雲霓を尋ね、深谷は無景を肆にし、馬を束ね車を懸けて、然る後に能く済る。皆一夫戟を荷えば千人も当たる莫しと言う。兵を進むるの日に及びて、曽て藩籬の限り無く、将を斬り旗を搴り、伏屍数万、勝ちに乗じて席巻し、径ちに成都に至る。漢中の諸城、皆鳥のごとく棲みて敢えて出でず。皆戦う心無きに非ず、誠に力相抗するに足らざればなり。劉禅降服するに至り、諸々の営堡の者、索然として俱に散ず。今、江淮の難は剣閣に過ぎず、山川の険は岷漢に過ぎず。孫皓の暴は劉禅より侈に、呉越の困は巴蜀より甚だし。而して大晋の兵衆は前世より多く、資儲器械は往時より盛んなり。今、此に於て呉を平らげずして、更に兵を阻みて相守らば、征夫は苦役し、日に干戈を尋ね、盛衰を経歴し、長久なるべからず。宜しく時に当たりて定め、以て四海を一にすべし。今、若し梁・益の兵を引きて、水陸俱に下り、荊楚の衆は進みて江陵に臨み、平南・豫州は直ちに夏口を指し、徐・揚・青・兗は並びに秣陵に向かい、鼓旆して以て之を疑わしめ、多方にして以て之を誤らしめば、一隅の呉を以て、天下の衆に当たり、勢い分かれ形散じ、備うる所皆急ならん。巴・漢の奇兵、其の空虚に出で、一処傾壊すれば則ち上下震蕩せん。
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『長短経』三国権国を為むるの体は、任寄に在り。彼の公卿は、員に備わるのみ。小人施文慶を抜きて、委ぬるに政事を以てす。尚書令江総は、唯だ詩酒を事とし、本と経略の才に非ず。蕭摩訶・任蛮奴は是れ其の大将なるも、一夫の用のみ。其の必ず克つこと三なり。我は道有りて大なり、彼は徳無くして小なり。其の甲士を量るに、十万に過ぎず。西は巫峡より東は滄海に至る。之を分かてば則ち勢い懸かにして力弱く、之を聚むれば則ち此を守りて彼を失う。其の必ず克つこと四なり。席巻の兆し、其れ疑わざるに在り」と。熲、忻然として曰く「君の成敗を言うや、理甚だ分明なり。吾今豁然たり。本と才学を以て相期す。意わざりき、籌略乃ち此に至らんとは」と。遂に兵を進め、叔宝を虜にす。此れ呉を滅ぼすの形なり。
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『長短経』三国権世祖の時に至りて〔即ち晋の武帝〕、羊祜、平呉の表を上りて曰く「先帝は天に順い時に応じ、西は巴蜀を平らげ、南は呉会と和し、海内以て休息するを得、兆庶楽安の心有り。而るに呉は復た信に背き、辺事をして更に興らしむ。夫れ期運は天の授くる所なりと雖も、功業は必ず人に由りて成る。一たび大挙して掃滅せずんば、則ち衆役時として安んずるを得ること無し。亦た先帝の勲を隆くし、無為の化を成す所以なり。故に堯に丹水の伐有り、舜に有苗の征有り。咸な以て宇宙を寧静にし、兵を戢め衆を和する者なり。蜀平らぐの後、天下皆呉は当に并せて亡ぶべしと謂う。此より来たること十三年、是れ一周と謂う。平定の期、復た今日に在り。議する者常に言う、呉楚は道有れば後に服し、礼無ければ先に強し、と。此れ乃ち諸侯の時のみ。当今は一統なり。古と同じく論ずるを得ず。夫れ道に適うの論は、皆未だ権に応ぜず。是の故に之を謀ること多しと雖も、之を決するは独りならんことを欲す。凡そ険阻を以て存するを得る者は、敵する所の者力を同じくして自ら固むるに足るを謂う。苟も其の軽重斉しからず、強弱勢いを異にせば、則ち智士も謀ること能わず、而して険阻も保つべからざるなり。