長短経 / 三国権
至世祖時〔即晋武帝〕羊祜上平吴表曰、「先帝順天應時、西平巴蜀、南和吴㑹、海内得以休息、兆庶有樂安之心。而吴復背信、使邉事更興。夫期運雖天所授、而功業必由人而成。不一大舉掃滅、則衆役無時得安。亦所以隆先帝之勲成無為之化也。故堯有丹水之伐、舜有有苖之征、咸以寜静宇宙、戢兵和衆者也。蜀平之後、天下皆謂吳當并亡。自此来十三年、是謂一周。平定之期、復在今日。議者常言吴楚有道後服、無禮先強、此乃諸侯之時耳。當今一統、不得與古同論。夫適道之論、皆未應權、是故謀之雖多、而决之欲獨。凡以險阻得存者、謂所敵者同力足自固、茍其輕重不齊、強弱異勢、則智士不能謀、而險阻不可保也。
新字:至世祖時〔即晋武帝〕羊祜上平呉表曰、「先帝順天応時、西平巴蜀、南和呉会、海内得以休息、兆庶有楽安之心。而呉復背信、使邉事更興。夫期運雖天所授、而功業必由人而成。不一大舉掃滅、則衆役無時得安。亦所以隆先帝之勲成無為之化也。故堯有丹水之伐、舜有有苖之征、咸以寜静宇宙、戢兵和衆者也。蜀平之後、天下皆謂呉当并亡。自此来十三年、是謂一周。平定之期、復在今日。議者常言呉楚有道後服、無礼先強、此乃諸侯之時耳。当今一統、不得与古同論。夫適道之論、皆未応権、是故謀之雖多、而決之欲独。凡以険阻得存者、謂所敵者同力足自固、苟其軽重不斉、強弱異勢、則智士不能謀、而険阻不可保也。
書き下し
世祖の時に至りて〔即ち晋の武帝〕、羊祜、平呉の表を上りて曰く「先帝は天に順い時に応じ、西は巴蜀を平らげ、南は呉会と和し、海内以て休息するを得、兆庶楽安の心有り。而るに呉は復た信に背き、辺事をして更に興らしむ。夫れ期運は天の授くる所なりと雖も、功業は必ず人に由りて成る。一たび大挙して掃滅せずんば、則ち衆役時として安んずるを得ること無し。亦た先帝の勲を隆くし、無為の化を成す所以なり。故に堯に丹水の伐有り、舜に有苗の征有り。咸な以て宇宙を寧静にし、兵を戢め衆を和する者なり。蜀平らぐの後、天下皆呉は当に并せて亡ぶべしと謂う。此より来たること十三年、是れ一周と謂う。平定の期、復た今日に在り。議する者常に言う、呉楚は道有れば後に服し、礼無ければ先に強し、と。此れ乃ち諸侯の時のみ。当今は一統なり。古と同じく論ずるを得ず。夫れ道に適うの論は、皆未だ権に応ぜず。是の故に之を謀ること多しと雖も、之を決するは独りならんことを欲す。凡そ険阻を以て存するを得る者は、敵する所の者力を同じくして自ら固むるに足るを謂う。苟も其の軽重斉しからず、強弱勢いを異にせば、則ち智士も謀ること能わず、而して険阻も保つべからざるなり。
現代語訳
世祖〔晋の武帝〕の時になると、羊祜は呉を平定する上表文を奉った。「先帝は天に従い時に応じて、西は巴蜀を平らげ、南は呉と和睦し、天下は休息を得て、万民は楽しく安らかな心を持ちました。ところが呉はまた信義に背き、国境の戦をまた起こしました。時運は天が授けるものですが、功業は必ず人によって成し遂げられます。一度大挙して掃討しなければ、多くの労役がいつまでも休まりません。これはまた先帝の勲功を高め、何もしなくても治まる教化を成すことでもあります。だから堯には丹水の征伐があり、舜には有苗の征伐がありました。どれも天下を安らかにし、兵を収め民を和するためのものです。蜀が平定された後、天下の人は皆、呉も一緒に滅ぶはずだと言いました。それから十三年、歳星が一巡りしました。平定の時期はまた今日にあります。議論する者はいつも、呉楚は中央に道があれば最後に従い、礼がなければ真っ先に強がる、と言います。しかしそれは諸侯が並び立っていた時代の話です。今は天下が一つにまとまっており、昔と同じには論じられません。道理に合った議論というのは、たいてい臨機応変には応じていません。だから謀を相談する相手は多くてよいが、決断するのは一人であるべきです。険しい地形で生き延びられるのは、敵対する相手と力が同じで、自分を固めるに足りる場合のことです。もし重さが釣り合わず強弱の勢いが違えば、知恵ある者も謀りようがなく、険しい地形も守れません。
解説

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