長短経 / 三国権
〔時吴王皓有兼上國之心、使陸抗為荆州牧。晋使羊祜與吴人相持。祜増修徳政以懐吴。吴每與戰、必尅日而後合、聞謀掩襲並不為、若臨陣俘獲、軍正将斬之、祜輙曰、「此等死節之臣也。」為之垂涕、親加殯、給其家、迎喪者、必厚為之禮而歸之。吴将有来者、輙任其所適。若欲返吴、便為祖道。吴將有二兒、皆幼、在境上戲、為祜軍所畧、經月。其父謂之已死、發喪。祜親自勉勞供飬遣歸。父後感其恩徳、率二千来降。於是陸抗每告其衆曰、彼専為義、此専為暴、是不戰而自服也。各保分界、無求細益而已。」稱曰、「羊叔子雖樂毅、諸葛亮、何以過之?」
新字:〔時呉王皓有兼上国之心、使陸抗為荆州牧。晋使羊祜与呉人相持。祜増修徳政以懐呉。呉毎与戦、必尅日而後合、聞謀掩襲並不為、若臨陣俘獲、軍正将斬之、祜輙曰、「此等死節之臣也。」為之垂涕、親加殯、給其家、迎喪者、必厚為之礼而帰之。呉将有来者、輙任其所適。若欲返呉、便為祖道。呉将有二児、皆幼、在境上戯、為祜軍所略、経月。其父謂之已死、発喪。祜親自勉労供飬遣帰。父後感其恩徳、率二千来降。於是陸抗毎告其衆曰、彼専為義、此専為暴、是不戦而自服也。各保分界、無求細益而已。」称曰、「羊叔子雖楽毅、諸葛亮、何以過之?」
書き下し
〔時に呉王皓、上国を兼ぬるの心有り。陸抗をして荊州牧たらしむ。晋は羊祜をして呉人と相持せしむ。祜は増々徳政を修めて以て呉を懐く。呉と戦う毎に、必ず日を克めて後に合し、謀りて掩襲するを並びに為さず。若し陣に臨みて俘獲し、軍正将に之を斬らんとすれば、祜輒ち曰く「此等は節に死するの臣なり」と。之が為に涕を垂れ、親ら殯を加え、其の家に給し、喪を迎うる者には、必ず厚く之が礼を為して之を帰す。呉の将の来たる者有れば、輒ち其の適く所に任す。若し呉に返らんと欲すれば、便ち祖道を為す。呉の将に二児有り、皆幼し。境上に在りて戯れ、祜の軍の略する所と為り、月を経たり。其の父、之を已に死せりと謂い、喪を発す。祜親ら自ら勉め労い、供養して遣わし帰す。父、後に其の恩徳に感じ、二千を率いて来降す。是に於て陸抗、毎に其の衆に告げて曰く「彼は専ら義を為し、此は専ら暴を為す。是れ戦わずして自ら服するなり。各々分界を保ち、細かき益を求むること無きのみ」と。称して曰く「羊叔子は、楽毅・諸葛亮と雖も、何を以て之に過ぎん」と。
現代語訳
〔そのころ呉王孫皓は中原を併せる野心を持ち、陸抗を荊州牧とした。晋は羊祜に呉と対峙させた。羊祜はますます徳のある政治を行い、呉の人々を懐かせた。呉と戦うときは必ず日を約束してから交戦し、謀略による奇襲は一切しなかった。戦場で捕虜を得て軍法官が斬ろうとすると、羊祜はいつも「この者たちは節義に殉じる臣だ」と言い、涙を流し、自ら納棺し、家族に手当てを与え、遺体を迎えに来た者には必ず手厚く礼をして帰した。呉の将で投降してきた者がいれば、行きたいところに行かせ、呉に帰りたいと言えば送別の宴を開いた。ある呉の将に幼い二人の子がいて、国境で遊んでいて羊祜の軍にさらわれ、一か月たった。父親は死んだと思って喪を発した。羊祜は自ら子らをいたわり養って送り返した。父親は後にその恩に感じ、二千人を率いて降ってきた。そこで陸抗はいつも兵に言った。「向こうはひたすら義を行い、こちらはひたすら乱暴を行う。これでは戦わずに自ら屈服するようなものだ。それぞれ境界を守り、小さな利益を求めないようにせよ」。そして「羊叔子は、楽毅や諸葛亮でもこれ以上ではない」と称えた。〕
解説

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『武士道』第六章 禮儀・礼の極意は愛に庶幾し外人の我邦に来り遊ぶもの、嫻雅礼節を以て日本人の特性なりと称せざるは無し。礼もし、俯仰折旋の儀容に過ぎずして、同情の発現にして、又た尊きを尊び、秩序ある社会の許すとせば、乃ち以て徳とするに足らず。礼は人の感情を察認する地位を敬ふの意を有す。而して其地位とは貧富の別に基くものの謂に非らず、人の誠に有する効績徳業の差等の謂なり。礼の極意は愛に庶幾し。されば予はここに慎んで、彼の聖語の一字を更へて、『礼は寛忍をなし、又た人の益を図るなり。礼は妬まず、誇らず、驕傲らず、非礼を行はず、己れの利を求めず、軽々しく怒らず、人の悪を念はず』と謂ふを得んか。ディーン教授が人生の六義を論じて、礼を重しとし、之を以て社交の熟果なりとせしは、けだし又た異しむに足らず。
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『慎思録』巻之二造化の人に於けるや、富貴爵禄を靳しまずして、独り徳を靳しむ。此れ造化靳惜に心有るに非ず、自然にして然り。故に富貴なる者は、古今常に多く、賢哲なる者は、古今常に少なし。蓋し徳は是れ天地神秀の気、純粋精美の理にして、鍾会して人身に附与する者なり。夫れ陰陽の気は、霄壌の間に充塞すと雖も、然れども清明粋美なる者は少なし。故に人の生まるる、其の清粋の気を禀受する者甚だ寡し。亦た宜ならずや。此れ君子の常に寡く、小人の常に衆き所以なり。天の命を降すや、人をして徳有りて道を知らしむる者は、是れ天の独り君子を寵異する所にして、富貴爵禄の其の生を厚くする者に百倍す。此れ君子の以て至楽と為して、富貴爵禄を願はざる所以なり。然らば則ち学者は当に貧賤不遇を憂へずして、特に学の講ぜざる、徳の修まらざるを憂ふべきのみ。
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『翁問答』上卷之末体充曰、儒門の心学をきはめずして、軍法に達し軍法をたてゝ、その名たかき大将、倭漢ともに古来多く候へば、心学のみがきなくても、軍法のまなびはなり申べく候、しかるにまづ儒門の心学をきはめてのちに軍法をまなびたるがよしと仰せられ候は不審に存候。師の曰、よきうたがひにて候、大将の才を逞じく生れたる人は、心学のみがきなくても、軍法に達し軍功をば立るといへども、その徳なきゆへに才のたくまじきに迷ひ、必ず人を殺す事を好み、不義無道のふるまひあれば、万民その毒にあたりなげき悲むによつて、終には天罰をかうぶり、其身もほろび国も必ず絶滅するものなり、その証拠はもろこしにても我朝にても、其徳なくて才のみ逞しき大将に、其身難なく子孫繁昌したる人まれなり倭漢の史書にて考へ見るべし、