長短経 / 三国権
曹氏率義撥亂、代載其功、至文帝時、天人與能矣。遂受漢禪。〔劉若勸進曰、「臣聞、符命不虚見、衆心不可違故孔子曰、『周公其不聖乎?以天下讓、是天地日月輕去其萬物也。』是以舜享天下、不拜而受。今火徳氣盡、炎上數終。帝遷明徳、祚隆大魏、符瑞昭晢受命既固。光天之下、神人同應。雖有虞之儀鳯、周之躍魚、方之今事、未足為喻。而陛下違天命以飾小行、逆人心以守私志上忤皇穹乃眷之㫖中忘聖人逹節之數、下孤人臣翹首之望、非所以揚聖道於髙衢、垂無窮之懿勲也。臣等聞、事君有獻可替否之道、奉上有逆鱗固争之義。臣等敢以死請。」
新字:曹氏率義撥乱、代載其功、至文帝時、天人与能矣。遂受漢禅。〔劉若勧進曰、「臣聞、符命不虚見、衆心不可違故孔子曰、『周公其不聖乎?以天下譲、是天地日月軽去其万物也。』是以舜享天下、不拝而受。今火徳気尽、炎上数終。帝遷明徳、祚隆大魏、符瑞昭晢受命既固。光天之下、神人同応。雖有虞之儀鳳、周之躍魚、方之今事、未足為喩。而陛下違天命以飾小行、逆人心以守私志上忤皇穹乃眷之旨中忘聖人逹節之数、下孤人臣翹首之望、非所以揚聖道於高衢、垂無窮之懿勲也。臣等聞、事君有献可替否之道、奉上有逆鱗固争之義。臣等敢以死請。」
書き下し
曹氏は義を率いて乱を撥め、代々其の功を載す。文帝の時に至りて、天人能に与す。遂に漢の禅りを受く。〔劉廙、勧進して曰く「臣聞く、符命は虚しく見れず、衆心は違うべからず、と。故に孔子曰く『周公は其れ聖ならざるか。天下を以て譲るは、是れ天地日月の軽々しく其の万物を去るなり』と。是を以て舜は天下を享くるに、拝せずして受く。今、火徳の気尽き、炎上の数終わる。帝は明徳に遷り、祚は大魏に隆んなり。符瑞昭晢にして命を受くること既に固し。光天の下、神人同じく応ず。有虞の儀鳳、周の躍魚有りと雖も、之を今の事に方ぶるに、未だ喩えと為すに足らず。而るに陛下は天命に違いて以て小行を飾り、人心に逆らいて以て私志を守る。上は皇穹の眷みる旨に忤い、中は聖人の達節の数を忘れ、下は人臣の翹首の望みに孤く。聖道を高衢に揚げ、無窮の懿勲を垂るる所以に非ざるなり。臣等聞く、君に事うるに可を献じ否を替うるの道有り、上に奉ずるに逆鱗固争の義有り、と。臣等敢えて死を以て請う」と。
現代語訳
曹氏は義を掲げて乱を治め、代々その功を重ねた。文帝の時になると、天も人も能力ある者に与した。ついに漢の禅譲を受けた。〔劉廙らは即位を勧めて言った。「めでたいしるしはむなしく現れず、人々の心には逆らえないと聞きます。だから孔子は『周公は聖人ではなかったのか。天下を譲るのは、天地日月が軽々しく万物を離れるようなものだ』と言ったのです。だから舜は天下を受けるのに辞退せずに受けました。いま漢の火徳の気は尽き、炎の数は終わりました。天は明らかな徳に移り、天運は大魏に盛んです。めでたいしるしははっきりとし、天命を受けることはすでに確かです。天の下、神も人も同じく応じています。舜の時の鳳凰や周の時に舟に躍り込んだ魚があったといっても、今のことに比べればたとえにもなりません。それなのに陛下は天命に背いて小さな謙遜を飾り、人心に逆らって個人の志を守っておられる。上は天の思し召しに背き、中は聖人の時に応じた節度を忘れ、下は首を長くして待つ臣下の望みを裏切っています。これは聖人の道を大通りに掲げ、限りない功を後世に残すやり方ではありません。君主に仕えるには、よいことを勧め悪いことを改めさせる道があり、主上に仕えるには、逆鱗に触れても固く争う義があると聞きます。臣らはあえて死をもってお願いします」。
解説

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尚書・堯典帝曰く、「咨(ああ)、四岳。湯湯(しやうしやう)たる洪水方(まさ)に割(そこな)ひ、蕩蕩として山を懐(つつ)み陵に襄(のぼ)り、浩浩として天に滔(はびこ)る。下民其れ咨(なげ)く。能く乂(をさ)めしむる有らんか」と。僉(みな)曰く、「於(ああ)、鯀(こん)なるかな」と。帝曰く、「吁(ああ)、咈(もと)れるかな。命に方(さか)らひ族を圮(やぶ)る」と。岳曰く、「异(や)めんかな。試みて可なれば乃ち已(や)まん」と。帝曰く、「往け、欽(つつし)まんかな」と。九載、績用(もつ)て成らず。帝曰く、「咨、四岳。朕位に在ること七十載。汝能く命を庸(もち)ゐる、朕が位を巽(ゆづ)らん」と。岳曰く、「否徳、帝位を忝(はづかし)めん」と。曰く、「明明を明らかにし、側陋を揚げよ」と。師錫(あた)へて帝に曰く、「鰥(やもを)の下に在る有り、虞舜と曰ふ」と。帝曰く、「俞(しか)り、予聞けり。如何」と。岳曰く、「瞽(こ)の子なり。父は頑(かたくな)に、母は嚚(おろか)に、象は傲(おご)る。克く諧(やはら)ぐるに孝を以てし、烝烝(じようじよう)として乂(をさ)め、姦に格(いた)らしめず」と。帝曰く、「我其れ試みんかな」と。時(これ)に女(めあは)せ、厥(そ)の刑(のり)を二女に観る。二女を嬀汭(きぜい)に釐降(りかう)し、虞に嬪(よめ)せしむ。帝曰く、「欽まんかな」と。
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史記 燕召公世家湣公三十一年にして卒し、釐公立つ。是の歳、三晋列して諸侯と為る。釐公の三十年、伐ちて斉を林営に敗る。釐公卒し、桓公立つ。桓公十一年にして卒し、文公立つ。是の歳、秦の献公卒す。秦益々彊し。文公の十九年、斉の威王卒す。二十八年、蘇秦始めて来たり見え、文公に説く。文公車馬金帛を予へて以て趙に至らしむ。趙の粛侯之を用ふ。因りて六国を約し、従長と為る。秦の恵王其の女を以て燕の太子の婦と為す。二十九年、文公卒し、太子立つ。是を易王と為す。易王初めて立つや、斉の宣王燕の喪に因りて我を伐ち、十城を取る。蘇秦斉に説き、復た燕に十城を帰さしむ。十年、燕君王と為る。蘇秦燕の文公の夫人と私通し、誅せられんことを懼れ、乃ち王に説きて斉に使ひして反間を為し、以て斉を乱さんと欲す。易王立ちて十二年にして卒し、子の燕噲(かい)立つ。燕噲既に立ち、斉人蘇秦を殺す。蘇秦の燕に在るや、其の相子之と婚を為し、而して蘇代子之と交はる。蘇秦死するに及びて、斉の宣王復た蘇代を用ふ。燕噲の三年、楚・三晋と秦を攻め、勝たずして還る。子之燕に相として、貴重にして断を主る。蘇代斉の為に燕に使ひす。燕王問ひて曰く、「斉王は奚如(いかん)」と。対へて曰く、「必ず覇たらず」と。燕王曰く、「何ぞや」と。対へて曰く、「其の臣を信ぜず」と。蘇代以て燕王を激して以て子之を尊ばしめんと欲するなり。是に於て燕王大いに子之を信ず。子之因りて蘇代に百金を遺り、而して其の使ふ所を聴く。鹿毛寿燕王に謂ふ、「国を以て相の子之に譲るに如かず。人の堯を賢と謂ふ者は、其の天下を許由に譲るを以てなり。許由受けず。天下を譲るの名有りて、実は天下を失はず。今王国を以て子之に譲らば、子之必ず敢て受けず。是れ王堯と行を同じくするなり」と。燕王因りて国を子之に属す。子之大いに重し。
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『潜夫論』五德誌後嗣の慶都、龍と合婚し、伊堯を生む、高辛氏に代わる、其の眉は八彩、世に唐と号す。楽「大章」を作り、始めて位を禅る。武王殷に克ちて其の胄を鋳に封ず。含始、赤珠を呑み、剋して曰く「玉英漢を生ず」と。龍、女媼に感じ、劉季興る。大電、枢を繞りて野を炤らし、符宝に感じ、黄帝軒轅を生み、炎帝氏に代わる。其の相は龍顔、其の徳は土行、雲を以て紀す、故に雲師と為して雲名あり。楽「咸池」を作り、是れ始めて衣裳を製す。後嗣の握登、大虹を見、意に感じて重華虞舜を生む。其の目は重瞳、堯に事う、堯乃ち位を禅りて曰く、「爾舜に格れ、天の暦数は爾が躬に在り、允に厥の中を執れ、四海困窮せば、天禄永く終わらん」と。乃ち終わりを文祖に受くるなり、有虞と号し、楽「九韶」を作り、位を禹に禅る。武王殷に克ちて胡公媯満を陳に封じ、庸て元女大姫を以てす。大星虹の如く、華渚に下流し、女節夢に接し、白帝摯青陽を生む、世に少昊と号す。黄帝氏に代わり、曲阜に都し、其の徳は金行、其の立つや、鳳皇適に至る、故に鳥を以て紀す。鳳鳥氏は、暦正なり。玄鳥氏は、分を司る者なり。伯趙氏は、至を司る者なり。青鳥氏は、啓を司る者なり。丹鳥氏は、閉を司る者なり。
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史記 燕召公世家或ひと曰く、「禹、益を薦め、已にして啓の人を以て吏と為す。老ゆるに及びて、啓の人を以て天下を任ずるに足らずと為し、之を益に伝ふ。已にして啓交党と益を攻めて之を奪ふ。天下謂ふ、禹名は天下を益に伝へ、已にして実は啓をして自ら之を取らしむと。今王国を子之に属すと言ふも、吏は太子の人に非ざる者無し。是れ名は子之に属して、実は太子事を用ふるなり」と。王因りて印を三百石の吏より已上収めて之を子之に效(いた)す。子之南面して王事を行ひ、噲は老いて政を聴かず、顧って臣と為り、国事皆子之に決す。三年、国大いに乱れ、百姓恫恐す。将軍市被、太子平と謀り、将に子之を攻めんとす。諸将斉の湣王に謂ひて曰く、「因りて之に赴かば、燕を破ること必せり」と。斉王因りて人をして燕の太子平に謂はしめて曰く、「寡人聞く、太子の義、将に私を廃して公を立て、君臣の義を飭(ととの)へ、父子の位を明らかにせんとすと。寡人の国小にして、以て先後を為すに足らず。然りと雖も、則ち唯だ太子の之に令する所のままならん」と。太子因りて党を要し衆を聚め、将軍市被公宮を囲み、子之を攻むるも克たず。将軍市被及び百姓反って太子平を攻め、将軍市被死して、以て徇ふ。因りて難を搆ふること数月、死する者数万、衆人恫恐し、百姓志を離る。孟軻斉王に謂ひて曰く、「今燕を伐つは、此れ文・武の時なり、失ふべからず」と。王因りて章子をして五都の兵を将ゐ、以て北地の衆に因りて以て燕を伐たしむ。士卒戦はず、城門閉ぢず、燕君噲死し、斉大いに勝つ。燕の子之亡びて二年、燕人共に太子平を立つ。是を燕の昭王と為す。燕の昭王燕を破らるるの後に於て即位し、身を卑くし幣を厚くして以て賢者を招く。