長短経 / 三国権
〔靈帝崩、太子辨即位、并州牧董卓入朝、因廢帝為𢎞農王、而立獻帝、以董卓為太師、遷都長安。司徒王允誅卓、卓將郭汜、李傕圍長安城、城䧟殺王允。後李傕與郭汜有隙、傕質天子於其家。傕將楊奉謀殺傕、事泄、叛傕、傕衰弱、天子乃得出奔。楊奉欲以天子還洛陽、郭汜追天子於𢎞農之曹陽。奉等敗、殺公卿畧盡。天子渡河、都安邑、以韓暹為征東將軍、持政還洛陽。洛陽宮室燒盡、百官被荆棘、太祖迎天子都許。韓暹、楊奉各出奔〕
新字:〔霊帝崩、太子弁即位、并州牧董卓入朝、因廃帝為弘農王、而立献帝、以董卓為太師、遷都長安。司徒王允誅卓、卓将郭汜、李傕囲長安城、城陥殺王允。後李傕与郭汜有隙、傕質天子於其家。傕将楊奉謀殺傕、事泄、叛傕、傕衰弱、天子乃得出奔。楊奉欲以天子還洛陽、郭汜追天子於弘農之曹陽。奉等敗、殺公卿略尽。天子渡河、都安邑、以韓暹為征東将軍、持政還洛陽。洛陽宮室焼尽、百官被荆棘、太祖迎天子都許。韓暹、楊奉各出奔〕
書き下し
〔霊帝崩じ、太子辯位に即く。并州牧董卓入朝し、因りて帝を廃して弘農王と為し、而して献帝を立つ。董卓を以て太師と為し、都を長安に遷す。司徒王允、卓を誅す。卓の将郭汜・李傕、長安城を囲み、城陥ちて王允を殺す。後に李傕、郭汜と隙有り、傕は天子を其の家に質とす。傕の将楊奉、傕を殺さんと謀り、事泄れて、傕に叛く。傕衰弱し、天子乃ち出奔するを得たり。楊奉、天子を以て洛陽に還らんと欲す。郭汜、天子を弘農の曹陽に追う。奉等敗れ、公卿を殺すこと略々尽く。天子河を渡り、安邑に都す。韓暹を以て征東将軍と為し、政を持して洛陽に還る。洛陽の宮室焼け尽き、百官荊棘を被る。太祖、天子を迎えて許に都す。韓暹・楊奉各々出奔す。〕
現代語訳
〔霊帝が崩じ、太子劉辯が即位した。并州牧董卓が朝廷に入り、帝を廃して弘農王とし、献帝を立てた。董卓は太師となり、都を長安に移した。司徒王允が董卓を誅した。董卓の部将郭汜と李傕が長安城を囲み、城は落ちて王允は殺された。のちに李傕と郭汜が仲違いし、李傕は天子を自分の家に人質にした。李傕の部将楊奉が李傕を殺そうと謀ったが、事が漏れて李傕に背いた。李傕が弱ると、天子はようやく逃げ出せた。楊奉は天子を連れて洛陽に帰ろうとした。郭汜は天子を弘農の曹陽まで追った。楊奉らは敗れ、公卿のほとんどが殺された。天子は黄河を渡って安邑を都とし、韓暹を征東将軍として政務を執らせ、洛陽に帰った。洛陽の宮殿は焼け尽き、百官はいばらをかき分けて暮らした。太祖曹操が天子を迎えて許を都とした。韓暹と楊奉はそれぞれ逃げた。〕
解説

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