長短経 / 三国権
〔議曰、陸士衡稱孫權、執鞭鞠躬、以重陸公之威、悉委武衛、以濟周瑜之師、卑宮菲食、以豐功臣之賞、披懐虚巳以納謀士之算、屏氣跼蹐、以伺子明之疾、分滋損味、以育凌統之孤。是以忠臣競盡其能、志士咸得肆力、而帝業固矣。」黄石公曰、「賢人之政、降人以體、聖人之政、降人以心。體降可以圖始、心降可以保終。降體以體、降心以心。」由此觀之、孫權「執鞭鞠躬」、降體者也、「披懐虚巳心降者也。善始、令終不亦宜乎!〕
新字:〔議曰、陸士衡称孫権、執鞭鞠躬、以重陸公之威、悉委武衛、以済周瑜之師、卑宮菲食、以豊功臣之賞、披懐虚巳以納謀士之算、屏気跼蹐、以伺子明之疾、分滋損味、以育凌統之孤。是以忠臣競尽其能、志士咸得肆力、而帝業固矣。」黄石公曰、「賢人之政、降人以体、聖人之政、降人以心。体降可以図始、心降可以保終。降体以体、降心以心。」由此観之、孫権「執鞭鞠躬」、降体者也、「披懐虚巳心降者也。善始、令終不亦宜乎!〕
書き下し
〔議に曰く、陸士衡、孫権を称す。鞭を執り鞠躬して、以て陸公の威を重くし、悉く武衛を委ねて、以て周瑜の師を済し、宮を卑くし食を菲くして、以て功臣の賞を豊かにし、懐を披き己を虚しくして、以て謀士の算を納れ、気を屏め跼蹐して、以て子明の疾を伺い、滋を分かち味を損じて、以て凌統の孤を育す。是を以て忠臣競いて其の能を尽くし、志士咸な力を肆にするを得て、帝業固し、と。黄石公曰く「賢人の政は、人を降すに体を以てし、聖人の政は、人を降すに心を以てす。体降れば以て始めを図るべく、心降れば以て終わりを保つべし。体を降すは体を以てし、心を降すは心を以てす」と。此に由りて之を観れば、孫権の鞭を執り鞠躬するは、体を降す者なり。懐を披き己を虚しくするは、心を降す者なり。始めを善くし、終わりを令くするは、亦た宜ならずや。〕
現代語訳
〔論じて言う。陸機は孫権をこう称えた。「鞭を取り身をかがめて陸遜の威を重くし、自分の護衛兵まですべて託して周瑜の軍を助け、宮殿を質素にし食事を切り詰めて功臣への褒美を豊かにし、胸を開き自分を空しくして謀士の策を受け入れ、息をひそめ足音を忍ばせて呂蒙の病を見舞い、ご馳走を分け自分の食を減らして凌統の遺児を育てた。だから忠臣は競って能力を尽くし、志ある士は皆力を存分に振るい、帝業は固まったのだ」。黄石公は言う。「賢人の政治は体で人を従わせ、聖人の政治は心で人を従わせる。体で従わせれば始めを図ることができ、心で従わせれば終わりまで保てる。体を従わせるには体を使い、心を従わせるには心を使う」。これで見れば、孫権が鞭を取り身をかがめたのは体で従わせたことであり、胸を開き自分を空しくしたのは心で従わせたことである。始めを良くし終わりまで全うしたのも当然ではないか。〕
解説

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