長短経 / 三国権
權曰、「茍如君言、劉豫州何不遂事之乎?」亮曰、「田横、齊之壯士耳、猶守義不辱、况劉豫州王室之胄英才盖世、衆士慕仰、若水之歸海。若事之不濟、此乃天也、安得復為人之下?」權勃然曰、「吾不能舉全吴之地、十萬之衆受制於人。吾計决矣!非劉豫州莫可以當曹操者。然豫州新敗之後、安能抗此難乎?」
新字:権曰、「苟如君言、劉予州何不遂事之乎?」亮曰、「田横、斉之壮士耳、猶守義不辱、況劉予州王室之胄英才盖世、衆士慕仰、若水之帰海。若事之不済、此乃天也、安得復為人之下?」権勃然曰、「吾不能舉全呉之地、十万之衆受制於人。吾計決矣!非劉予州莫可以当曹操者。然予州新敗之後、安能抗此難乎?」
書き下し
権曰く「苟も君の言の如くんば、劉豫州何ぞ遂に之に事えざるや」と。亮曰く「田横は斉の壮士のみ。猶お義を守りて辱められず。況んや劉豫州は王室の冑にして、英才世を蓋い、衆士の慕仰すること、水の海に帰するが若し。若し事の済らざるは、此れ乃ち天なり。安んぞ復た人の下と為るを得んや」と。権、勃然として曰く「吾は全呉の地、十万の衆を挙げて、制を人に受くること能わず。吾が計決せり。劉豫州に非ずんば、以て曹操に当たるべき者莫し。然れども豫州は新たに敗るるの後、安んぞ能く此の難に抗せんや」と。
現代語訳
孫権は言った。「もしあなたの言うとおりなら、劉豫州はなぜ曹操に仕えないのか」。諸葛亮は言った。「田横は斉の一介の壮士にすぎなかったのに、義を守って辱めを受けませんでした。まして劉豫州は漢の王室の血筋で、英才は世を覆い、多くの士が慕うことは水が海に流れ込むようです。もし事が成らなければ、それは天命です。どうしてまた人の下につけましょうか」。孫権は顔色を変えて言った。「私は呉の全土と十万の兵を挙げて、人の支配を受けることはできない。私の計は決まった。劉豫州でなければ曹操に当たれる者はいない。しかし豫州は負けたばかりだ。どうしてこの難局に立ち向かえるのか」。
解説
孫権は、そんなに言うなら劉備こそ降伏すればいいと切り返します。諸葛亮は、一介の壮士の田横でさえ辱めを受けなかった、王室の血を引く劉備が人の下につくはずがないと答えました。この一言は、劉備の誇りを語りながら、孫権の誇りを刺激しています。劉備が降らないのに、呉の全土を持つ自分が降るのか。孫権は顔色を変えて戦うと決めました。相手のプライドに火をつけることも、説得の一つの形です。
この章句が説くこと
三国権諸葛亮孫権誇り説得劉備
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『長短経』三国権〔時に権、柴桑に軍し、劉備は樊に在り。曹公南のかた劉表を征す。会々表卒し、子の琮、衆を挙げて降る。先主、曹公の卒かに至るを知らず、宛に至りて乃ち之を聞き、遂に其の衆を率いて南に行き、曹公の追破する所と為る。劉備、夏口に至る。諸葛亮曰く「事急なり。請う、命を奉じて救いを孫将軍に求めん」と。遂に見えて、説きて曰く「将軍は兵を江東に起こし、劉豫州も亦た衆を漢南に収め、曹操と並びて天下を争う。今、操は大難を芟夷し、略々已に平らぐ。遂に荊州を破り、威は四海に震い、英雄は武を用うる所無し。故に豫州遁逃して此に至る。将軍、力を量りて之に処せよ。若し能く呉越の衆を以て中国と衡を争わば、早く之と絶つに如かず。若し当たること能わずんば、何ぞ兵を按じ甲を束ね、北面して之に事えざる。今、将軍は外は服従の名に託し、而して内は猶予の計を懐く。事急にして断ぜずんば、禍至ること日無し」と。
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『長短経』三国権亮曰く「豫州の軍、長坂に敗るると雖も、今、戦士の還る者及び関羽の将いる所の精甲万人、劉琦の江夏の戦士を合わすも亦た万人を下らず。曹操の衆は、遠来して疲弊す。聞く、豫州を追うに、騎は一日一夜に三百里を行く、と。此れ所謂強弩の末、魯縞を穿つこと能わざる者なり。故に兵法に之を忌みて曰く『必ず上将軍を蹶す』と。且つ北方の人は水戦に習わず。又た荊州の人の操に附く者は、兵勢に逼らるるのみにして、心服するに非ざるなり。今、将軍誠に猛将に命じて兵数万を統べしめ、豫州と規を協わせ力を同じくせば、操の軍を破ること必せり。操の軍破れなば、必ず北に還らん。此くの如くんば則ち荊・呉の勢い強く、鼎足の形成らん。成敗の機、今日に在り」と。権大いに悦び、即ち周瑜・魯粛を遣わし、亮に随いて先主に詣り、力を并せて曹公を拒ぐなり。〕
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