長短経 / 三国権
漢髙帝時、淮南王英布反〔布都六安、今夀州是也。〕反書聞、上召諸將、問、「布反、為之奈何?」汝隂侯滕公曰、「臣客故楚令尹薛公、有籌䇿、可問。」〔初滕公問令尹、令尹曰、「是故當反。」滕公曰、「上裂地而王之、踈爵而賞之、南面而立、萬乗之主、其反何也?」令尹曰、「徃年殺彭越、前年殺韓信、此三人同功一體之人也、自疑禍及、故反耳。」〕
新字:漢高帝時、淮南王英布反〔布都六安、今寿州是也。〕反書聞、上召諸将、問、「布反、為之奈何?」汝陰侯滕公曰、「臣客故楚令尹薛公、有籌策、可問。」〔初滕公問令尹、令尹曰、「是故当反。」滕公曰、「上裂地而王之、疎爵而賞之、南面而立、万乗之主、其反何也?」令尹曰、「往年殺彭越、前年殺韓信、此三人同功一体之人也、自疑禍及、故反耳。」〕
書き下し
漢の高帝の時、淮南王英布反す〔布は六安に都す、今の寿州是れなり〕。反書聞こゆ。上、諸将を召して問う「布反す。之を為すこと奈何」と。汝陰侯滕公曰く「臣の客、故の楚の令尹薛公、籌策有り。問うべし」と。〔初め滕公、令尹に問う。令尹曰く「是れ故より当に反すべし」と。滕公曰く「上は地を裂きて之を王とし、爵を疏きて之を賞し、南面して立つこと、万乗の主なり。其の反するは何ぞや」と。令尹曰く「往年彭越を殺し、前年韓信を殺す。此の三人は功を同じくし体を一にするの人なり。自ら禍の及ばんことを疑う、故に反するのみ」と。〕
現代語訳
漢の高帝のとき、淮南王英布が反乱を起こした〔英布は六安に都した。今の寿州である〕。反乱の知らせが届くと、高帝は諸将を呼んで問うた。「英布が背いた。どうすればよいか」。汝陰侯滕公が言った。「私の客に、もと楚の令尹の薛公がおり、策略に長けています。問うてみるとよいでしょう」。〔はじめ滕公が薛公に問うと、薛公は「もともと背くはずでした」と言った。滕公が「陛下は土地を裂いて王にし、爵位を分けて賞し、南面して立つ万乗の君主にしてやったのに、なぜ背くのか」と言うと、薛公は言った。「去年は彭越を殺し、一昨年は韓信を殺しました。この三人は功績を同じくし、一体のような人たちです。自分にも禍が及ぶのではと疑った。だから背いたのです」。〕
解説

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史記 黥布列伝十一年、高后淮陰侯を誅す。布因りて心に恐る。夏、漢梁王彭越を誅し、之を醢にし、其の醢を盛りて遍く諸侯に賜ふ。淮南に至る。淮南王方に猟し、醢を見て、因りて大いに恐れ、陰かに人をして兵を部聚せしめ、旁郡の警急を候伺せしむ。布の幸する所の姫疾み、医に就かんことを請ふ。医の家は中大夫賁赫と門を対す。姫数々医の家に如く。賁赫自ら以て侍中為りとし、乃ち厚く餽遺し、姫に従ひて医の家に飲む。姫王に侍し、従容として語る次に、赫を長者なりと誉む。王怒りて曰く、「汝安くよりか之を知る」と。具に状を説く。王其の与に乱るるを疑ふ。赫恐れ、病と称す。王愈々怒り、赫を捕へんと欲す。赫変事を言はんとし、伝に乗りて長安に詣る。布人をして追はしむるも、及ばず。赫至り、変を上り、布の反を謀るに端有り、未だ発せざるに先んじて誅すべしと言ふ。上其の書を読み、蕭相国に語る。相国曰く、「布宜しく此れ有るべからず。恐らくは仇怨妄りに之を誣ふるならん。請ふ赫を撃ち、人をして微かに淮南王を験せしめん」と。淮南王布、赫の罪を以て亡げ、変を上るを見て、固より已に其の国の陰事を言はんことを疑ふ。漢の使又来たり、頗る験する所有り。遂に赫の家を族し、兵を発して反す。反書聞こゆ。上乃ち賁赫を赦し、以て将軍と為す。上諸将を召して問ひて曰く、「布反す。之を為すこと柰何」と。皆曰く、「兵を発して之を撃ち、豎子を阬にせんのみ。何ぞ能く為さんや」と。汝陰侯滕公、故の楚の令尹を召して之に問ふ。令尹曰く、「是れ故より当に反すべし」と。滕公曰く、「上地を裂きて之を王とし、爵を疏ちて之を貴くし、南面して万乗の主と立つ。其の反するは何ぞや」と。令尹曰く、「往年彭越を殺し、前年韓信を殺す。此の三人は、功を同じくし体を一にするの人なり。自ら禍の身に及ぶを疑ふ。故に反するのみ」と。滕公之を上に言ひて曰く、「臣の客故の楚の令尹薛公なる者、其の人籌筴の計有り。問ふべし」と。上乃ち召見して薛公に問ふ。薛公対へて曰く、「布の反するは怪しむに足らざるなり。布をして上計に出でしめば、
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史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
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『長短経』三国権上曰く「是の計、将に安くにか出でんとする」と。令尹対えて曰く「下計に出でん」と。上曰く「何為れぞ上・中の計を廃して下計に出づる」と。令尹曰く「布は故の驪山の徒なり。自ら万乗の国を致す。此れ皆身の為にして其の後を顧み、万世の為に慮らざる者なり。故に曰く、下計に出でん、と」と。上曰く「善し」と。果たして策の如し。〔乃ち薛公を千戸に封ず。〕
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『長短経』三国権上乃ち召見し、薛公に問う。薛公対えて曰く「布の反すること、怪しむに足らず。布をして上計に出でしめば、山東は漢の有に非ず。中計に出でば、勝敗の数、未だ知るべからず。下計に出でば、陛下は枕を安んじて臥せん」と。上曰く「何をか上・中・下の計と謂う」と。令尹曰く「東に呉を取り〔蘇州是れなり〕、西に楚を取り〔荊州是れなり〕、斉を并せ魯を取り〔斉は青州、魯は兗州〕、檄を燕・趙に伝え、其の所を固守せば、山東は漢の有に非ず〔議に曰く、山東を合従し、持久の策を為すは、上計なり〕。何をか中計と謂う。東に呉を取り、西に楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖倉の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数、未だ知るべからず〔議に曰く、長駆して洛に入り、以て一朝の戦いを決するは、中計なり〕。何をか下計と謂う。東に呉を取り、西に下蔡を取り、重きを越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下は枕を安んじて臥し、漢は事無からん」と。
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史記 黥布列伝夫れ北面して人に臣事する者は、固より是の若きか。夫れ漢王彭城に戦ひ、項王未だ斉を出でざるに、大王宜しく淮南の兵を騒して淮を渡り、日夜彭城の下に会戦すべし。大王万人の衆を撫しながら、一人の淮を渡る者無く、垂拱して其の孰れか勝つを観る。夫れ国を人に託する者は、固より是の若きか。大王空名を提げて以て楚に郷ひ、而して厚く自ら託せんと欲す。臣竊かに大王の為に取らざるなり。然り而して大王楚に背かざる者は、漢を以て弱と為せばなり。夫れ楚の兵彊しと雖も、天下之に負はすに不義の名を以てす。其の盟約に背きて義帝を殺すを以てなり。然り而して楚王戦勝を恃みて自ら彊しとす。漢王は諸侯を収め、還りて成皋・滎陽を守り、蜀・漢の粟を下し、溝を深くし壁を塁ね、卒を分かちて徼を守り塞に乗る。楚人兵を還すに、間つるに梁の地を以てし、深く敵国に入ること八九百里、戦はんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能はず、老弱糧を千里の外に転ず。楚の兵滎陽・成皋に至るも、漢堅く守りて動かず、進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くるを得ず。故に曰く、楚の兵は恃むに足らざるなりと。楚をして漢に勝たしむれば、則ち諸侯自ら危懼して相救はん。夫れ楚の彊は、適々以て天下の兵を致すに足るのみ。故に楚の漢に如かざること、其の勢見易し。今大王万全の漢に与せずして自ら危亡の楚に託す。臣竊かに大王の為に之を惑ふ。臣は淮南の兵を以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ざるなり。夫れ大王兵を発して楚に倍かば、項王必ず留まらん。留まること数月、漢の天下を取ること以て万全なるべし。臣請ふ大王と剣を提げて漢に帰せん。漢王必ず地を裂きて大王を封ぜん。又況んや淮南をや。淮南は必ず大王の有たん。故に漢王敬んで使臣をして愚計を進めしむ。願はくは大王の意を留めよ」と。淮南王曰く、「請ふ命を奉ぜん」と。陰かに楚に畔きて漢に与するを許すも、未だ敢て泄らさず。楚の使者在り、方に急に英布に兵を発することを責め、伝舎に舎る。
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史記 黥布列伝其の八月、布将をして義帝を撃たしめ、追ひて之を郴県に殺す。漢の二年、斉王田栄楚に畔く。項王往きて斉を撃ち、兵を九江に徴す。九江王布病と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。漢の楚を彭城に敗るや、布又病と称して楚を佐けず。項王此に由りて布を怨み、数々使者をして誚譲して布を召さしむ。布愈々恐れ、敢て往かず。項王方に北は斉・趙を憂へ、西は漢を患ふ。与する所の者は独り九江王のみ。又布の材を多とし、親しみて之を用ひんと欲す。故を以て未だ撃たず。漢の三年、漢王楚を撃ち、大いに彭城に戦ひて、利あらず。梁の地に出でて、虞に至り、左右に謂ひて曰く、「彼等の如き者は、与に天下の事を計るに足る無し」と。謁者隨何進みて曰く、「陛下の謂ふ所を審らかにせず」と。漢王曰く、「孰か能く我が為に淮南に使ひし、之をして兵を発して楚に倍かしめ、項王を斉に留むること数月ならしめん。我の天下を取ること以て百全なるべし」と。隨何曰く、「臣請ふ之に使ひせん」と。乃ち二十人と倶に、淮南に使ひす。至る。太宰に因りて之を主とせしむるも、三日見ゆるを得ず。隨何因りて太宰に説きて曰く、「王の何に見えざるは、必ず楚を以て彊と為し、漢を以て弱と為すならん。此れ臣の使ひを為す所以なり。何をして見ゆるを得しめ、之を言ひて是ならば、是れ大王の聞かんと欲する所なり。之を言ひて非ならば、何等二十人をして斧質に淮南の市に伏せしめ、以て王の漢に倍きて楚に与するを明らかにせよ」と。太宰乃ち之を王に言ふ。王之に見ゆ。隨何曰く、「漢王臣をして敬んで書を大王の御者に進めしむ。竊かに大王の楚と何ぞ親しきを怪しむ」と。淮南王曰く、「寡人北郷して之に臣事す」と。隨何曰く、「大王と項王と倶に列して諸侯と為る。北郷して之に臣事するは、必ず楚を以て彊と為し、以て国を託すべしとすればなり。項王斉を伐つに、身づから板築を負ひ、以て士卒の先と為る。大王宜しく淮南の衆を悉くし、身づから自ら之に将として、楚軍の前鋒と為るべし。今乃ち四千人を発して以て楚を助く。