長短経 / 三国権
晋桓温滅之。至宋義熈中、譙縱又殺益州刺史毛璩於成都、稱成都王。〔初、毛璩使任約赴義軍、軍至枝江、㑹劉毅敗、約奔桓振。璩聞約奔桓振也、自將兵三千、由外水下。譙縱為之參軍、使將梁州兵五百人、從内水發。梁州人不欲東、遂推縱為主、反攻涪城、克之。璩聞難作、自洛陽歩還至成都、為縱黨所殺也。〕宋使朱齡石滅之、此蜀國形也。
新字:晋桓温滅之。至宋義熈中、譙縦又殺益州刺史毛璩於成都、称成都王。〔初、毛璩使任約赴義軍、軍至枝江、会劉毅敗、約奔桓振。璩聞約奔桓振也、自将兵三千、由外水下。譙縦為之参軍、使将梁州兵五百人、従内水発。梁州人不欲東、遂推縦為主、反攻涪城、克之。璩聞難作、自洛陽歩還至成都、為縦党所殺也。〕宋使朱齢石滅之、此蜀国形也。
書き下し
晋の桓温之を滅ぼす。宋の義熙中に至り、譙縦又た益州刺史毛璩を成都に殺し、成都王と称す。〔初め、毛璩、任約をして義軍に赴かしむ。軍、枝江に至る。会々劉毅敗れ、約は桓振に奔る。璩、約の桓振に奔るを聞き、自ら兵三千を将いて外水より下る。譙縦、之が参軍と為り、梁州の兵五百人を将いて内水より発せしむ。梁州の人、東するを欲せず、遂に縦を推して主と為し、反りて涪城を攻め、之に克つ。璩、難の作るを聞き、洛陽より歩して還りて成都に至り、縦の党の殺す所と為るなり。〕宋、朱齢石をして之を滅ぼさしむ。此れ蜀国の形なり。
現代語訳
晋の桓温がこれを滅ぼした。宋の義熙年間になると、譙縦がまた益州刺史毛璩を成都で殺し、成都王を名乗った。〔はじめ毛璩は任約に義軍へ赴かせた。軍が枝江に着いたとき、ちょうど劉毅が敗れ、任約は桓振のもとへ逃げた。毛璩は任約が桓振に寝返ったと聞き、自ら兵三千を率いて外水を下った。譙縦は参軍として梁州の兵五百人を率い、内水から出発させられた。梁州の兵は東へ行きたがらず、譙縦を担いで主とし、引き返して涪城を攻め落とした。毛璩は反乱を聞いて洛陽から歩いて成都に戻ったが、譙縦の一党に殺された。〕宋は朱齢石に譙縦を滅ぼさせた。これが蜀という国の形勢である。
解説
譙縦の割拠は、本人の野心から始まったのではありませんでした。遠い東への出征を嫌がった兵たちが、指揮官の譙縦を担いで引き返したのです。命令が兵の気持ちから離れすぎると、兵は自分たちの意思を代弁してくれる者を新しい主に立てる。蜀の歴史を並べた趙蕤は、ここで蜀国の形と締めくくります。閉じた地形の中では、中央から遠い命令が崩れやすく、割拠が繰り返し生まれたのです。
この章句が説くこと
三国権譙縦割拠現場命令蜀
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