長短経 / 三国権
軍至成都、述出戰、兵敗被刺、洞胷死、夷述妻子、焚其宮室。〔光武聞之、怒以譴漢曰、「城降三日、吏人服從。一旦放兵縱火、良失斬將弔人之義也。」乃下詔慰之。其忠節志義之士、並蒙旌顯、李育以有才幹擢用之。於是西土感悦、莫不歸心焉。范曄曰、「昔趙佗自王番禺、公孫亦竊帝蜀漢、推其無他功能、而至於後亡者、將以邉地處逺、非王化之所先乎?不能因隙立功、以㑹時變、方乃坐飾邉幅、以髙深自安、昔吴起所以慙魏侯也。及其謝羣臣、審廢興之命、與夫泥首銜玉者、異日談也。」〕
新字:軍至成都、述出戦、兵敗被刺、洞胸死、夷述妻子、焚其宮室。〔光武聞之、怒以譴漢曰、「城降三日、吏人服従。一旦放兵縦火、良失斬将弔人之義也。」乃下詔慰之。其忠節志義之士、並蒙旌顕、李育以有才幹擢用之。於是西土感悦、莫不帰心焉。范曄曰、「昔趙佗自王番禺、公孫亦窃帝蜀漢、推其無他功能、而至於後亡者、将以邉地処遠、非王化之所先乎?不能因隙立功、以会時変、方乃坐飾邉幅、以高深自安、昔呉起所以慚魏侯也。及其謝羣臣、審廃興之命、与夫泥首銜玉者、異日談也。」〕
書き下し
軍成都に至る。述出でて戦い、兵敗れて刺され、胸を洞して死す。述の妻子を夷し、其の宮室を焚く。〔光武之を聞き、怒りて以て漢を譴めて曰く「城降ること三日、吏人服従す。一旦兵を放ちて火を縦にす。良に将を斬り人を弔うの義を失うなり」と。乃ち詔を下して之を慰む。其の忠節志義の士は、並びに旌顕を蒙り、李育は才幹有るを以て之を擢用す。是に於て西土感悦し、心を帰せざるは莫し。范曄曰く「昔、趙佗は自ら番禺に王たり、公孫も亦た帝を蜀漢に竊む。其の他の功能無きを推して、而も後に亡ぶるに至る者は、将た辺地の遠きに処りて、王化の先んずる所に非ざるを以てか。隙に因りて功を立て、以て時の変に会うこと能わず、方に乃ち坐して辺幅を飾り、高深を以て自ら安んず。昔、呉起の魏侯を慙じしめし所以なり。其の群臣に謝し、廃興の命を審らかにするに及びては、夫の泥首銜玉する者と、日を異にして談ずるなり」と。〕
現代語訳
軍が成都に至ると、公孫述は出て戦い、兵は敗れ、胸を刺し貫かれて死んだ。漢軍は公孫述の妻子を殺し、宮殿を焼いた。〔光武帝はこれを聞いて怒り、呉漢を責めて言った。「城が降って三日、役人も民も従っていた。それを一度に兵を放って火を放つとは。将を斬って民を慰めるという義を、まったく失っている」。そして詔を下して蜀の民を慰めた。忠節と志ある士は皆表彰され、李育は才能があるので登用された。こうして西の地の人々は喜び、心を寄せない者はなかった。范曄は言う。「昔、趙佗は番禺で勝手に王を名乗り、公孫述も蜀で帝を盗んだ。ほかに功も能もないのに、後まで滅びなかったのは、辺境の遠い地にいて、王の教化が先に及ぶところではなかったからだろうか。隙に乗じて功を立て時勢の変化に応じることができず、ただ座って国境を飾り、山の高さと川の深さに安心していた。昔、呉起が魏の武侯に、国の宝は険しさではなく徳だと言って恥じ入らせたのは、このことだ。公孫述が最後に群臣に詫び、興亡の天命をわきまえたことは、泥を顔に塗り玉を口にくわえて降伏する者とは、別の日に語るべきことである」。〕
解説

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『慎思録』巻之二造化の人に於けるや、富貴爵禄を靳しまずして、独り徳を靳しむ。此れ造化靳惜に心有るに非ず、自然にして然り。故に富貴なる者は、古今常に多く、賢哲なる者は、古今常に少なし。蓋し徳は是れ天地神秀の気、純粋精美の理にして、鍾会して人身に附与する者なり。夫れ陰陽の気は、霄壌の間に充塞すと雖も、然れども清明粋美なる者は少なし。故に人の生まるる、其の清粋の気を禀受する者甚だ寡し。亦た宜ならずや。此れ君子の常に寡く、小人の常に衆き所以なり。天の命を降すや、人をして徳有りて道を知らしむる者は、是れ天の独り君子を寵異する所にして、富貴爵禄の其の生を厚くする者に百倍す。此れ君子の以て至楽と為して、富貴爵禄を願はざる所以なり。然らば則ち学者は当に貧賤不遇を憂へずして、特に学の講ぜざる、徳の修まらざるを憂ふべきのみ。
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