長短経 / 三国権
〔議曰、國君為社禝死則死、為社禝亡則亡。譙周勸後主降魏、可乎?孫盛曰、「《春秋》之義、國君死社禝卿大夫死位、况稱天子而辱於人乎?周謂萬乗之君、偷生茍存、亡禮希利、要冀㣲榮、惑矣!且以事勢言之、理有未盡、何者?禪雖庸主、實無桀紂之酷、戰雖屢北、未有土崩之亂、縱不能君臣固守、背城一戰、自可退次東鄙、以思後圖。
新字:〔議曰、国君為社禝死則死、為社禝亡則亡。譙周勧後主降魏、可乎?孫盛曰、「《春秋》之義、国君死社禝卿大夫死位、況称天子而辱於人乎?周謂万乗之君、偸生苟存、亡礼希利、要冀微栄、惑矣!且以事勢言之、理有未尽、何者?禅雖庸主、実無桀紂之酷、戦雖屡北、未有土崩之乱、縦不能君臣固守、背城一戦、自可退次東鄙、以思後図。
書き下し
〔議に曰く、国君は社稷の為に死すれば則ち死し、社稷の為に亡ぶれば則ち亡ぶ。譙周、後主に魏に降らんことを勧むるは、可なるか。孫盛曰く「春秋の義、国君は社稷に死し、卿大夫は位に死す。況んや天子と称して人に辱めらるるをや。周は万乗の君をして、生を偸み苟くも存し、礼を亡いて利を希い、微栄を要冀せしむと謂う。惑えり。且つ事勢を以て之を言うも、理に未だ尽くさざる有り。何となれば、禅は庸主なりと雖も、実に桀・紂の酷無く、戦いは屢々北ぐと雖も、未だ土崩の乱有らず。縦い君臣固守し、城を背にして一戦すること能わずとも、自ら退きて東鄙に次り、以て後図を思うべし。
現代語訳
〔論じて言う。国君は社稷のために死ぬべきときは死に、社稷とともに滅ぶべきときは滅ぶ。譙周が後主に魏への降伏を勧めたのは、よかったのか。孫盛は言う。「『春秋』の義では、国君は社稷に殉じ、卿大夫は職位に殉じる。まして天子と称しながら人に辱められてよいはずがない。譙周は、万乗の君主に命を盗み仮にでも生き延び、礼を失って利を求め、わずかな栄誉を望ませた。惑っている。しかも情勢から言っても、道理を尽くしていないところがある。なぜなら、劉禅は凡庸な君主ではあっても、桀や紂のような残酷さはなく、戦いはたびたび敗れたとはいえ、国が土台から崩れるような乱はまだなかった。たとえ君臣が固く守り、城を背にして一戦することができなくても、東の辺境に退いて、後の計を考えることはできたはずだ。
解説

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『講孟余話』盡心上 第三十四章是れ上章「其の有に非ずして之を取るは義に非ず」と云ふに因りて、陳仲子の義、大義とするに足らず、只是れ簞食豆羹を舎つるの義なるを云ふ。陳仲子の事は、滕文公下篇末章に詳らかなり。仲子兄を避け母を離れ、吾が禄を食はず、これ親戚・君臣・上下を亡みするなり。已に人の大倫を外したる人なれば、他の小義は復た云ふに足る者なし。今斉国大なる如しと云へども、畢竟簞食豆羹と異なることなし。孟子論ずる所は物の大小に非ず、乃ち義の大小なり。是れを以て知るべし、聖人は人倫の至りにて、聖人の道は又人倫を以て大綱とす。受与の際に至りては、特に其の細目のみ。夷・斉の餓死する如くにして君臣の義あり、匡章の養はれざる如くにして、却つて父子の親ありと知るべし。
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『五常訓』巻之四・義一中庸曰く、義は宜なり、賢を尊ぶを大なりと為す。朱子章句に云く、宜とは事理を分別して、各宜しき所有るなり。周子も、宜を義と曰ふ。釈名曰く、義は宜なり、事物を裁制して、宜しきに合はしむるなり。諸説皆宜しきを以て義とす。宜しきとは、万事万物の品にしたがひ、其理をわきまへて、相応するを云ふ。朱子は、義は心の制、事の宜といへり。制とは、たちわかつ意。裁判するなり。心の制とは、心中に善悪をわかつ所の理あるを云ふ。義の心にあるは、利刀の如し。物来れば、刀を以てたてば二となる。善悪を決断する事、かくの如し。是心の制なり。義の体とす。事之宜とは、諸事に相応して、其理の宜しきにしたがふを云ふ。是義の用とす。事之宜は、心の制ありて、善悪をたちわかちて後の事なり。人を愛するは仁なり。
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『五常訓』巻之四・義是行ふ所は善にして、王道に似たれども、内心には、国土を得んと思へる利欲ありて、偽て仁義を行へるなり。是を覇道と云ふ。斉の桓公、晋の文公などの行へるわざなり。是亦義と利とのわかちなり。学者のなす所も、是に同じ。孔子曰く、古の学者は己の為にす。是ひとへに、身ををさめん為にせし学問にて、義なり。又曰く、今の学者は人の為にす。是人にほめられ、名を得んためにする学問なれば、利なり。しかれば、王伯のわかちも、君子小人の分も、学問の実否も、皆義と利との二よりわかる。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一君子の道は、すべき事を行ひ、すまじき事をせず。これ義なり。好むべき事を好み、好むまじき事を好まず。是善なり。君子の道はかくの如きのみ。是孟子の語意なり。一人の知は目のごとし。人の目はよく百里の外を見れども、わが睫を見がたし。人の智よく他人の悪を知れども、わが身の悪を知らず。人をみることは常に明なり。私なければなり。自ら見ることは常にくらし。私あればなり。ここを以て、人の過をせむる事はきびしく、わが悪をゆるす事はゆるやかなり。
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『春秋左氏伝』昭公三年 趙文子、州を取らず夏、四月、鄭伯晉に如く。公孫段相たり。甚だ敬にして卑し、禮違ふ者無し。晉侯焉を嘉し、之に授くるに策を以ってして曰く、「子豐晉國に勞有り。余聞きて忘れず。女に州の田を賜ひ、以って乃(なんぢ)の舊勳に胙(むく)いん」と。伯石再拜稽首し、策を受けて以って出づ。君子曰く、「禮は其れ人の急なるか。伯石の汏(おご)れるや、一たび晉に禮を為して、猶ほ其の祿を荷ふ。況んや禮を以って終始するをや。詩に曰く、『人にして禮無くんば、胡ぞ遄やかに死せざる』と。其れ是を之れ謂ふか」と。初め、州縣は欒豹の邑なり。欒氏亡ぶるに及び、范宣子・趙文子・韓宣子、皆之を欲す。文子曰く、「溫は吾が縣なり」と。二宣子曰く、「郤稱より以って別れて三傳す。晉の別縣は、唯だ州のみならず。誰か獲て之を治めん」と。文子之を病み、乃ち之を舍つ。二子曰く、「吾以って正議して自ら與ふ可からず」と。皆之を舍つ。文子政を為すに及び、趙獲曰く、「以って州を取る可し」と。文子曰く、「退け。二子の言は義なり。義に違ふは禍なり。余は余が縣を治むる能はず、又焉んぞ州を用ゐん。其れ以って禍を徼(まね)かん。君子曰く、『知らざるは實に難し。知りて從はざるは、禍焉より大なるは莫し』と。州を言ふ有らば必ず死せん」と。豐氏は故(もと)より韓氏に主たり。伯石の州を獲るや、韓宣子之が為に之を請ふ。其の復た之を取るが為の故なり。
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『弁名』義人多く礼の先王の礼為るを知りて、義も亦た先王の義為るを知らず。故に其の解皆通ぜず。蓋し義は道の分なり。千差万別、各〻宜しき所有り。故に曰く、「義は宜なり」と。先王既に其の千差万別なる者を以て、制して以て礼と為す。学者猶ほ其の之を制する所以の意を伝ふ。是れ所謂礼の義なり。而して其の空言を以て伝ふる者、是れ所謂義なり。故に礼義は皆古より之を伝ふ。豈に先王の義に非ずや。