長短経 / 三国権
先是、吳主孫權請和。〔吴使張温使蜀、權謂温曰、「卿不宜逺出、恐諸葛孔明不知吾所以與曹氏通意。故屈卿行人之義、受命不受辭也。」對曰、「臣入無腹心之規、出無專對之用、懼無張老延譽之功、又無子産陳事之效、然諸葛亮達見計數、必知神慮屈伸之宜、加受朝廷天覆之恵。推亮之心、必無疑貳。」
新字:先是、呉主孫権請和。〔呉使張温使蜀、権謂温曰、「卿不宜遠出、恐諸葛孔明不知吾所以与曹氏通意。故屈卿行人之義、受命不受辞也。」対曰、「臣入無腹心之規、出無専対之用、懼無張老延誉之功、又無子産陳事之効、然諸葛亮達見計数、必知神慮屈伸之宜、加受朝廷天覆之恵。推亮之心、必無疑貳。」
書き下し
是より先、呉主孫権、和を請う。〔呉は張温をして蜀に使いせしむ。権、温に謂いて曰く「卿は宜しく遠く出づべからず。恐らくは諸葛孔明、吾が曹氏と意を通ずる所以を知らざらん。故に卿を行人の義に屈す。命を受けて辞を受けざるなり」と。対えて曰く「臣は入りては腹心の規無く、出でては専対の用無し。張老の誉れを延ぶるの功無く、又た子産の事を陳ぶるの効無きを懼る。然れども諸葛亮は達見にして計数あり、必ず神慮屈伸の宜しきを知り、加えて朝廷天覆の恵みを受く。亮の心を推すに、必ず疑弐無からん」と。
現代語訳
これより前、呉の孫権は和睦を求めた。〔呉は張温を蜀に使者として送った。孫権は張温に言った。「あなたは本来遠くに出すべき人ではない。だが諸葛孔明が、私が曹氏と通じた理由を理解していないかもしれないので、あなたに使者の役を曲げて頼むのだ。使命は授けるが、言うべき言葉は授けない」。張温は答えた。「私は内にあっては腹心の計を立てることもできず、外に出ては一人で応対する力もありません。晋の張老のように君主の誉れを広める功もなく、鄭の子産のように事情を述べる成果も上げられないのではと恐れます。しかし諸葛亮は見識が広く計算に長けていますから、必ず殿のお考えの伸び縮みの妙を理解するでしょう。そのうえ朝廷の天のような恩恵を受けています。亮の心を推し量れば、疑いを持つことはないはずです」。
解説

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