長短経 / 三国権
〔述以問羣臣、博士吴柱曰、「昔武王伐紂、八百諸侯不期同辭、然猶還師以待天命、未聞無左右之助、而欲出師於千里之外、以廣封疆者也。」邯曰、「今東帝無尺寸之柄、驅烏合之衆、跨馬陷敵、所向輙平、不亟乗時與之争功、而坐談武王之説、是效隗囂欲為西伯也。」范曄曰、摆旗紏族、假制明神迹。夫創圖首事、有以識其風矣。終於孤立一隅、介於大國、隴坻雖隘、非有百二之勢、區區兩郡以禦堂堂之鋒、則知其道有足懐者、所以棲有四方之傑。夫功全則譽顯、業謝則舋生、逥成喪而為其議者、或未聞焉!若囂命㑹符運、敵非天力、坐論西伯、豈多嗤乎?」〕述不聽邯計。光武乃使岑彭、吳漢伐蜀、破荆門、長驅入江闗。
新字:〔述以問羣臣、博士呉柱曰、「昔武王伐紂、八百諸侯不期同辞、然猶還師以待天命、未聞無左右之助、而欲出師於千里之外、以広封疆者也。」邯曰、「今東帝無尺寸之柄、駆烏合之衆、跨馬陥敵、所向輙平、不亟乗時与之争功、而坐談武王之説、是効隗囂欲為西伯也。」范曄曰、摆旗紏族、仮制明神迹。夫創図首事、有以識其風矣。終於孤立一隅、介於大国、隴坻雖隘、非有百二之勢、区区両郡以禦堂堂之鋒、則知其道有足懐者、所以棲有四方之傑。夫功全則誉顕、業謝則舋生、逥成喪而為其議者、或未聞焉!若囂命会符運、敵非天力、坐論西伯、豈多嗤乎?」〕述不聴邯計。光武乃使岑彭、呉漢伐蜀、破荆門、長駆入江関。
書き下し
〔述、以て群臣に問う。博士呉柱曰く「昔、武王紂を伐つに、八百諸侯期せずして辞を同じくするも、然れども猶お師を還して以て天命を待つ。未だ左右の助け無くして、師を千里の外に出だし、以て封疆を広めんと欲する者を聞かざるなり」と。邯曰く「今、東帝は尺寸の柄無く、烏合の衆を駆り、馬に跨りて敵を陥れ、向かう所輒ち平らぐ。亟やかに時に乗じて之と功を争わず、而して坐して武王の説を談ずるは、是れ隗囂の西伯と為らんと欲するに效うなり」と。范曄曰く「旗を摆き族を糾し、制を明神に仮るの迹。夫れ図を創り事を首むるに、以て其の風を識る有り。終に一隅に孤立し、大国に介す。隴坻は隘なりと雖も、百二の勢い有るに非ず。区区たる両郡を以て堂堂の鋒を禦ぐ。則ち其の道に懐うに足る者有るを知る。四方の傑を棲ましむる所以なり。夫れ功全ければ則ち誉れ顕れ、業謝すれば則ち釁生ず。成喪を回らして之が議を為す者、或いは未だ聞かず。若し囂の命、符運に会い、敵天力に非ずんば、坐して西伯を論ずるも、豈に多く嗤わんや」と。〕述、邯の計を聴かず。光武乃ち岑彭・呉漢をして蜀を伐たしめ、荊門を破り、長駆して江関に入る。
現代語訳
〔公孫述が群臣に問うと、博士の呉柱は言った。「昔、武王が紂を伐とうとしたとき、八百の諸侯が申し合わせもなく同じことを言ったのに、なお兵を引き返して天命を待ちました。周りの助けもないのに千里の外に兵を出して領土を広げようとした者など、聞いたことがありません」。荊邯は言った。「いま東の皇帝は、もとはわずかな権力もなかったのに、寄せ集めの兵を駆り、馬にまたがって敵を破り、向かうところすべて平らげています。急いで時に乗じて功を争わず、座って武王の話をしているのは、隗囂が西伯になろうとしたのをまねるようなものです」。范曄は隗囂を評して言う。「旗を振り一族を集め、神の名を借りて命令を出した。事を始めるときの計画を見れば、その人柄がわかる。最後は一隅に孤立し、大国の間に挟まった。隴の地は狭いが、二人で百人を防ぐほどの要害ではない。わずか二郡で堂々たる漢の軍を防いだのだから、その道に人を慕わせるものがあったのだとわかる。だから四方の英傑が身を寄せたのだ。功が全うされれば誉れが顕れ、事業が衰えれば非難が生まれる。成功か失敗かを見てから議論する者のことは、あまり聞かない。もし隗囂の命運が天の巡りに合い、敵が天の力を持つ者でなかったなら、座って西伯を論じたことも、そう笑われはしなかっただろう」。〕公孫述は荊邯の計を聞き入れなかった。光武帝は岑彭と呉漢に蜀を伐たせ、荊門を破り、長駆して江関に入った。
解説

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