長短経 / 三国権
王莽末、公孫述據蜀。〔述字子陽、扶風茂陵人也、王莽時為導江卒正、治臨卭及更始立、豪傑各起其縣以應漢、南陽人宗成略漢中、啇人王岑亦起兵於雒縣、自稱定漢将軍、以應成。述聞之、遣使迎成、成等至成都、虜掠暴横、述意惡之、召縣中豪傑謂曰、「天下同苦新室、思劉氏久矣、故聞漢将軍到、馳迎道路。今百姓無辜而婦子係獲、室屋燒燔、此㓂賊、非義兵也。吾欲保郡自守、以待真主、諸卿欲并力者即留、不欲者便去。」豪傑皆叩頭願効死。述於是使人詐稱漢使者自東方來、假述輔漢将軍、益州牧。乃選精兵千餘人而擊宗成等、破之。别遣弟恢於綿竹擊更始所置益州刺史張忠、又破之、由是威震益部者也。〕
新字:王莽末、公孫述拠蜀。〔述字子陽、扶風茂陵人也、王莽時為導江卒正、治臨卭及更始立、豪傑各起其県以応漢、南陽人宗成略漢中、啇人王岑亦起兵於雒県、自称定漢将軍、以応成。述聞之、遣使迎成、成等至成都、虜掠暴横、述意悪之、召県中豪傑謂曰、「天下同苦新室、思劉氏久矣、故聞漢将軍到、馳迎道路。今百姓無辜而婦子係獲、室屋焼燔、此㓂賊、非義兵也。吾欲保郡自守、以待真主、諸卿欲并力者即留、不欲者便去。」豪傑皆叩頭願効死。述於是使人詐称漢使者自東方来、仮述輔漢将軍、益州牧。乃選精兵千余人而撃宗成等、破之。別遣弟恢於綿竹撃更始所置益州刺史張忠、又破之、由是威震益部者也。〕
書き下し
王莽の末、公孫述、蜀に拠る。〔述、字は子陽、扶風茂陵の人なり。王莽の時、導江の卒正と為り、臨邛を治む。更始の立つに及び、豪傑各々其の県に起ちて以て漢に応ず。南陽の人宗成、漢中を略し、商の人王岑も亦た兵を雒県に起こし、自ら定漢将軍と称して、以て成に応ず。述之を聞き、使いを遣わして成を迎う。成等成都に至り、虜掠暴横す。述、意に之を悪み、県中の豪傑を召して謂いて曰く「天下同じく新室に苦しみ、劉氏を思うこと久し。故に漢の将軍到ると聞き、道路に馳せ迎う。今、百姓辜無くして婦子係獲せられ、室屋焼燔せらる。此れ寇賊にして、義兵に非ざるなり。吾、郡を保ちて自ら守り、以て真主を待たんと欲す。諸卿、力を并せんと欲する者は即ち留まれ。欲せざる者は便ち去れ」と。豪傑皆叩頭して死を効さんことを願う。述、是に於て人をして詐りて漢の使者東方より来たると称し、述に輔漢将軍・益州牧を仮せしむ。乃ち精兵千余人を選びて宗成等を撃ち、之を破る。別に弟の恢を遣わして綿竹に更始の置く所の益州刺史張忠を撃たしめ、又た之を破る。是に由りて威、益部に震う者なり。〕
現代語訳
王莽の末、公孫述が蜀に拠った。〔公孫述は字を子陽といい、扶風茂陵の人である。王莽のとき導江の卒正(太守)となり、臨邛を治めた。更始帝が立つと、各地の豪傑がそれぞれの県で兵を起こして漢に応じた。南陽の人宗成は漢中を攻め取り、商の人王岑も雒県で兵を起こして定漢将軍を名乗り、宗成に呼応した。公孫述はこれを聞いて使者を送り宗成を迎えた。ところが宗成らは成都に来ると略奪し乱暴をはたらいた。公孫述は内心これを憎み、県中の豪傑を集めて言った。「天下は皆、新の王莽に苦しみ、劉氏を長く慕ってきた。だから漢の将軍が来ると聞いて、道に出て迎えたのだ。ところがいま、罪のない民の妻子が捕らえられ、家が焼かれている。これは盗賊であって、義の兵ではない。私は郡を保って自ら守り、真の主君を待ちたい。力を合わせたい者は残り、そうでない者は去ってよい」。豪傑は皆額を地につけて命を捧げると誓った。そこで公孫述は、人に漢の使者が東から来たと偽らせ、自分に輔漢将軍・益州牧の位を仮に授けさせた。そして精兵千余人を選んで宗成らを撃ち破った。別に弟の公孫恢を綿竹に送り、更始帝が置いた益州刺史張忠を撃ち、これも破った。こうして威勢が益州に轟いた。〕
解説

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李衛公問対・卷中此れ蓋し先づ人情の本(もと)悪を為すに非ざるを料る、豈に予(あらかじ)め慮らざらんや。臣頃(このごろ)突厥を討ち、蕃漢の衆を総べ、塞を出づること千里、未だ嘗て一揚干を戮し、一荘賈を斬らず、亦た赤誠を推し、至公を存するのみ。陛下過聴し、臣を擢(ぬき)んずるに不次の位を以てす。若し文武に於いては、則ち何ぞ敢へて当たらん。」太宗曰く、「昔唐倹突厥に使ひし、卿因りて撃ちて之を敗る。人言ふ、卿倹を以て死間と為すと。朕今に至るまで疑ふ。如何。」靖再拝して曰く、「臣と倹とは肩を比(なら)べて主に事(つか)ふ。倹の説必ず柔服すること能はざるを料る。故に臣因りて兵を縦(はな)ちて之を撃つ。大悪を去りて、小義を顧みざる所以なり。人倹を以て死間と為すと謂ふは、臣の心に非ず。『孫子』の〈用間〉を案ずるに、最も下策と為す。臣嘗て論を著して其の末に云ふ、