長短経 / 七雄略
光武中興、纂隆皇統、而猶遵覆車之遺轍、養喪家之宿疾、僅及數世、姦宄充斥、卒有强臣専朝、則天下風靡、一夫縱横、則城池自夷、豈不危哉?在周之難興王室也、放命者七臣、干位者三子、嗣王委其九鼎、凶族據其天邑、鉦鼙震於閫宇、鋒鏑流於絳闕。然禍止畿甸、害不覃及、天下晏然。以治待亂、是以宣王興於共和、襄、恵振於晉、鄭。豈若二漢階闥蹔擾、而四海已沸、孽臣朝入、而九服夕亂哉。遠惟王莽簒逆之事、近覽董卓擅權之際、億兆悼心、愚智同痛、豈世乏曩時之臣、士無匡合之志歟?葢逺績屈於時異、雄心挫於卑勢耳。
新字:光武中興、纂隆皇統、而猶遵覆車之遺轍、養喪家之宿疾、僅及数世、姦宄充斥、卒有強臣専朝、則天下風靡、一夫縦横、則城池自夷、豈不危哉?在周之難興王室也、放命者七臣、干位者三子、嗣王委其九鼎、凶族拠其天邑、鉦鼙震於閫宇、鋒鏑流於絳闕。然禍止畿甸、害不覃及、天下晏然。以治待乱、是以宣王興於共和、襄、恵振於晋、鄭。豈若二漢階闥蹔擾、而四海已沸、孽臣朝入、而九服夕乱哉。遠惟王莽簒逆之事、近覧董卓擅権之際、億兆悼心、愚智同痛、豈世乏曩時之臣、士無匡合之志歟?葢遠績屈於時異、雄心挫於卑勢耳。
書き下し
光武中興し、皇統を纂隆するも、猶お覆車の遺轍に遵い、喪家の宿疾を養う。僅かに数世に及びて、姦宄充斥す。卒に強臣の朝を専らにする有れば、則ち天下風靡し、一夫縦横すれば、則ち城池自ら夷ぐ。豈に危うからずや。周の難に在りて王室を興すや、命に放る者七臣、位を干す者三子、嗣王は其の九鼎を委て、凶族は其の天邑に拠り、鉦鼙は閫宇に震い、鋒鏑は絳闕に流る。然れども禍は畿甸に止まり、害は覃く及ばず、天下晏然たり。治を以て乱を待つ。是を以て宣王は共和に興り、襄・恵は晋・鄭に振るう。豈に二漢の階闥蹔く擾れて、四海已に沸き、孽臣朝に入りて、九服夕べに乱るるが若くならんや。遠くは王莽簒逆の事を惟い、近くは董卓擅権の際を覧るに、億兆心を悼み、愚智同じく痛む。豈に世に曩時の臣乏しく、士に匡合の志無からんや。蓋し遠績は時の異なるに屈し、雄心は卑勢に挫くのみ。
現代語訳
光武帝は漢を中興し、皇統を受け継いで盛んにしたが、なお転覆した車の轍をなぞり、滅んだ家の持病を養い続けた。わずか数代で悪人がはびこった。強い臣下が朝廷を独占すれば天下はなびき、一人の男が暴れれば城はひとりでに平らげられた。なんと危ういことか。周が難に遭い王室を立て直したときには、命に背く臣が七人、位をうかがう者が三人おり、王は九鼎を捨て、凶悪な一族が都に居座り、戦の鉦と鼓が宮中に響き、矢じりが宮門に飛んだ。それでも禍は都の周りにとどまり、害は遠くまで広がらず、天下は穏やかだった。治まった地方が乱れた中央を待っていたのである。だから宣王は共和の後に興り、襄王・恵王は晋や鄭の力で立ち直った。前漢と後漢のように、宮中の門がしばし乱れただけで四海が沸き立ち、悪臣が朝に入れば夕べには天下が乱れる、というのとはまるで違う。遠くは王莽の簒奪、近くは董卓の専権を見るに、万民は心を痛め、愚かな者も賢い者も同じく嘆いた。世に昔のような忠臣がいなかったのか、士に天下を正す志がなかったのか。そうではない。遠大な功は時勢の違いに屈し、雄々しい心は低い立場のために挫かれたのである。
解説
この章句が説くこと
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