長短経 / 七雄略
〔燕王使太子丹入質於秦。秦欲使張唐相燕、與共伐趙、以廣河間地。張唐謂呂不韋曰、「臣嘗為昭王伐趙、趙怨臣。今之燕、必經趙、臣不可行。」不韋不快、未有以强之。其舎人甘羅年十二、謂不韋曰、「臣請為君行之。」遂見張唐曰、「君之功孰與武安君?」唐曰、「武安君南挫强楚、北滅燕、趙、戰勝攻取、破城隳邑、不可勝數。臣之功不如也。」甘羅曰、「應侯之用於秦、孰與文信侯専?」唐曰、「應侯不如文信侯専。」甘羅曰、「昔應侯欲伐趙、武安君難之、去咸陽十里、賜死於杜郵。今文信侯自請君相燕、而不肯行、臣不知君所死處也。」
新字:〔燕王使太子丹入質於秦。秦欲使張唐相燕、与共伐趙、以広河間地。張唐謂呂不韋曰、「臣嘗為昭王伐趙、趙怨臣。今之燕、必経趙、臣不可行。」不韋不快、未有以強之。其舎人甘羅年十二、謂不韋曰、「臣請為君行之。」遂見張唐曰、「君之功孰与武安君?」唐曰、「武安君南挫強楚、北滅燕、趙、戦勝攻取、破城隳邑、不可勝数。臣之功不如也。」甘羅曰、「応侯之用於秦、孰与文信侯専?」唐曰、「応侯不如文信侯専。」甘羅曰、「昔応侯欲伐趙、武安君難之、去咸陽十里、賜死於杜郵。今文信侯自請君相燕、而不肯行、臣不知君所死処也。」
書き下し
〔燕王、太子丹をして秦に入質せしむ。秦は張唐をして燕に相たらしめ、与に共に趙を伐ちて、以て河間の地を広めんと欲す。張唐、呂不韋に謂いて曰く「臣嘗て昭王の為に趙を伐つ。趙、臣を怨む。今燕に之かば、必ず趙を経ん。臣行くべからず」と。不韋快からざるも、未だ以て之を強うること有らず。其の舎人甘羅、年十二、不韋に謂いて曰く「臣請う、君の為に之を行わしめん」と。遂に張唐に見えて曰く「君の功は武安君に孰与れぞ」と。唐曰く「武安君は南のかた強楚を挫き、北のかた燕・趙を滅ぼし、戦えば勝ち攻むれば取り、城を破り邑を隳つこと、勝げて数うべからず。臣の功は如かざるなり」と。甘羅曰く「応侯の秦に用いらるるは、文信侯の専らなるに孰与れぞ」と。唐曰く「応侯は文信侯の専らなるに如かず」と。甘羅曰く「昔、応侯趙を伐たんと欲し、武安君之を難んず。咸陽を去ること十里にして、死を杜郵に賜う。今、文信侯自ら君に燕に相たらんことを請うに、肯えて行かず。臣、君の死する所を知らざるなり」と。
現代語訳
〔燕王は太子丹を人質として秦に入れた。秦は張唐を燕の宰相にし、ともに趙を伐って河間の地を広げようとした。張唐は呂不韋に言った。「私はかつて昭王のために趙を伐ったので、趙は私を恨んでいます。燕へ行くには必ず趙を通ります。私は行けません」。呂不韋は不機嫌だったが、無理強いする手がなかった。食客の甘羅は十二歳で、呂不韋に「私に行かせてください」と言った。そして張唐に会って言った。「あなたの功績は武安君と比べてどうですか」。張唐は「武安君は南に強い楚をくじき、北に燕と趙を滅ぼし、戦えば勝ち、攻めれば取り、城を破り町を壊したことは数えきれない。私の功は及ばない」と言った。甘羅は「応侯が秦で重用されたのと、文信侯(呂不韋)が権力を握っているのとでは、どちらが上ですか」。張唐は「応侯は文信侯には及ばない」。甘羅は言った。「昔、応侯が趙を伐とうとしたとき、武安君は反対し、咸陽を出て十里の杜郵で死を賜りました。いま文信侯自らあなたに燕の宰相を頼んでいるのに、行こうとしない。あなたがどこで死ぬことになるか、私にはわかりません」。
解説

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『春秋左氏伝』哀公六年 孺子の牛冬、十月、丁卯、之を立つ。將に盟はんとす。鮑子醉ひて往く。其の臣差車の鮑點曰く、「此れ誰の命ぞ」と。陳子曰く、「命を鮑子に受く」と。遂に鮑子を誣ひて曰く、「子の命なり」と。鮑子曰く、「女(なんぢ)、君の孺子の牛と為りて其の齒を折りしを忘れたるか。而るに之に背くか」と。悼公稽首して曰く、「吾子は義を奉じて行ふ者なり。若し我可ならば、必ずしも一大夫を亡はず。若し我可ならずんば、必ずしも一公子を亡はず。義なれば則ち進み、否なれば則ち退かん。敢へて唯だ子に是れ從はざらんや。廢興以て亂るること無くんば、則ち願ふ所なり」と。鮑子曰く、「誰か君の子に非ざらん」と。乃ち盟を受く。胡姬をして安孺子を以て賴に如かしむ。鬻姒を去り、王甲を殺し、江說を拘へ、王豹を句竇の丘に囚ふ。公、朱毛をして陳子に告げしめて曰く、「子微かりせば則ち此に及ばず。然れども君は器に異なり、以て二にすべからず。器は二なれば匱しからず、君は二なれば難多し。敢へて諸を大夫に布く」と。僖子對へずして泣きて曰く、「君舉げて群臣を信ぜざるか。齊國の困を以て、困又憂有り。少君は以て訪ふべからず。是を以て長君を求む。庶(こひねが)はくは亦た能く群臣を容れんか。然らずんば、夫の孺子何の罪かあらん」と。毛復命す。公之を悔ゆ。毛曰く、「君、大は陳子に訪ひて、其の小を圖らば、可なり」と。毛をして孺子を駘に遷さしむ。至らずして、諸を野幕の下に殺し、諸を殳冒淳に葬る。
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論語・季氏篇孔子曰く、天下に道有れば、則ち礼楽征伐は天子より出づ。天下に道無ければ、則ち礼楽征伐は諸侯より出づ。諸侯より出づれば、蓋し十世にして失わざるは希なり。大夫より出づれば、五世にして失わざるは希なり。陪臣国命を執れば、三世にして失わざるは希なり。天下に道有れば、則ち政は大夫に在らず。天下に道有れば、則ち庶人は議せず。
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史記 呂太后本紀孝恵帝慈仁にして、太后の怒りを知り、自ら趙王を霸上に迎へ、与に宮に入り、自ら挾みて趙王と起居飲食を与にす。太后之を殺さんと欲するも、間を得ず。孝恵の元年十二月、帝晨に出でて射す。趙王少くして、蚤く起くる能はず。太后其の独り居るを聞き、人をして酖を持ちて之に飲ましむ。犁明、孝恵還る、趙王已に死せり。是に於て乃ち淮陽王友を徙して趙王と為す。夏、詔して酈侯の父に賜ひて追謚して令武侯と為す。
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論語・陽貨篇陽貨、孔子に見えんと欲す。孔子見えず。孔子に豚を帰す。孔子その亡きを時として往きてこれを拜す。塗にこれに遇う。陽貨曰わく、来れ、予、事有り。曰わく、宝を懐いてその邦に迷う、仁と謂うべけんや。曰わく、不可なり。事を好みて時を亟(しばしば)失う、知と謂うべけんや。曰わく、不可なり。曰わく、日月逝けり、歳我を与えず。孔子曰わく、諾、吾将に仕えんとす。
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『韓非子』難四第三十九今未だ其の得る所以有らずして、而も其の處る所以を行う。是れ義を倒にして徳に逆うなり。
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史記 范雎蔡沢列伝秦の太后・穣侯・華陽・高陵・涇陽有るを聞きて、その王有るを聞かざるなり。夫れ国を擅にする、これを王と謂ひ、能く利害する、これを王と謂ひ、殺生の威を制する、これを王と謂ふ。今、太后は擅に行ひて顧みず、穣侯は出使して報ぜず、華陽・涇陽等は撃断して諱む無く、高陵は進退して請はず。四貴備はりて国危ふからざる者は、未だこれ有らざるなり。此の四貴の者の下と為るは、乃ち所謂王無きなり。然らば則ち権安んぞ傾かざるを得ん、令安んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、善く国を治むる者は、乃ち内にその威を固めて外にその権を重くすと。穣侯の使者は王の重きを操り、制を諸侯に決し、符を天下に剖き、政適(てき)して国を伐つ、敢へて聴かざる莫し。戦ひ勝ち攻め取らば則ち利は陶に帰し、国獘れて諸侯に御せらる。戦ひ敗るれば則ち怨みを百姓に結び、而して禍は社稷に帰す。詩に曰く『木の実繁き者はその枝を披き、その枝を披く者はその心を傷つく。その都を大にする者はその国を危ふくし、その臣を尊ぶ者はその主を卑しくす』と。崔杼・淖歯は斉を管し、王の股を射、王の筋を擢き、これを廟の梁に県け、宿昔にして死す。李兌は趙を管し、主父を沙丘に囚へ、百日にして餓死せしむ。今、臣聞く、秦の太后・穣侯事を用ひ、高陵・華陽・涇陽これを佐け、卒に秦王無し、此れまた淖歯・李兌の類なり。且つ夫れ三代の国を亡ぼしし所以の者は、君専ら政を授け、酒を縦にし馳騁弋猟して、政事を聴かざればなり。その授けられし所の者は、賢を妒み能を嫉み、下を御し上を蔽ひ、以てその私を成し、主の為に計らず、而して主覚悟せず、故にその国を失ふ。今、有秩より以上諸大吏に至るまで、下は王の左右に及ぶまで、相国の人に非ざる者無し。王の独り朝に立つを見、臣竊かに王の為に恐る、万世の後、秦国を有つ者は王の子孫に非ざらんことを」と。昭王これを聞きて大いに懼れて曰く、「善し」と。是に於いて太后を廃し、穣侯・高陵・華陽・涇陽君を関外に逐ふ。秦王乃ち范睢を拝して相と為す。