長短経 / 七雄略
凡大王之所信為縱者、恃蘓秦。蘓秦熒惑諸侯、以是為非、以非為是、欲反覆齊國、而自令車裂於市。夫天下之不可一混齊亦明矣。今楚與秦為昆弟之國。而韓、梁稱為東藩之臣、齊獻魚鹽之地、此斷趙之右臂也。夫斷右臂而與人鬬、失其黨而孤居、求欲無危、豈可得乎?今秦發三軍、其一軍塞午道、告齊使興師、渡河軍於邯鄲之東、一軍軍於成臯、驅韓梁軍於河外、一軍軍澠池、約四國而攻趙。趙服、必四分其地、是故、不敢匿意隠情、先以聞於左右。臣竊為大王計、莫如與秦王遇於澠池、面相見而口相約。請案兵無攻、願大王之定計。」趙肅侯許之。
新字:凡大王之所信為縦者、恃蘓秦。蘓秦熒惑諸侯、以是為非、以非為是、欲反覆斉国、而自令車裂於市。夫天下之不可一混斉亦明矣。今楚与秦為昆弟之国。而韓、梁称為東藩之臣、斉献魚塩之地、此断趙之右臂也。夫断右臂而与人闘、失其党而孤居、求欲無危、豈可得乎?今秦発三軍、其一軍塞午道、告斉使興師、渡河軍於邯鄲之東、一軍軍於成皋、駆韓梁軍於河外、一軍軍澠池、約四国而攻趙。趙服、必四分其地、是故、不敢匿意隠情、先以聞於左右。臣窃為大王計、莫如与秦王遇於澠池、面相見而口相約。請案兵無攻、願大王之定計。」趙粛侯許之。
書き下し
凡そ大王の縦を為すと信ずる所の者は、蘇秦を恃めばなり。蘇秦は諸侯を熒惑し、是を以て非と為し、非を以て是と為し、斉国を反覆せんと欲して、自ら車裂を市に令す。夫れ天下の一混斉すべからざることも亦た明らかなり。今、楚は秦と昆弟の国たり。而して韓・梁は東藩の臣と称し、斉は魚塩の地を献ず。此れ趙の右臂を断つなり。夫れ右臂を断ちて人と闘い、其の党を失いて孤居し、危うきこと無からんことを求め欲するも、豈に得べけんや。今、秦は三軍を発す。其の一軍は午道を塞ぎ、斉に告げて師を興さしめ、河を渡りて邯鄲の東に軍せしむ。一軍は成皋に軍し、韓・梁の軍を河外に駆る。一軍は澠池に軍し、四国に約して趙を攻めしむ。趙服すれば、必ず其の地を四分せん。是の故に、敢えて意を匿し情を隠さず、先ず以て左右に聞す。臣竊かに大王の為に計るに、秦王と澠池に遇い、面相見て口相約するに如くは莫し。請う、兵を案じて攻むること無からん。願わくは大王の計を定めよ」と。趙の粛侯、之を許す。
現代語訳
「大王が合従を信じてこられたのは、蘇秦を頼みにしていたからです。蘇秦は諸侯を惑わし、是を非とし非を是として、斉を寝返らせようとし、自ら市場で車裂きの刑に遭いました。天下が一つにまとまりえないことは明らかです。いま楚は秦と兄弟の国となり、韓と魏は東の藩臣を名乗り、斉は魚と塩の地を献じました。これは趙の右腕を断ったということです。右腕を断たれて人と戦い、味方を失って孤立しながら、危うくないことを望んでも、どうして得られましょう。いま秦は三軍を出します。一軍は午道を塞ぎ、斉に兵を起こさせて河を渡り邯鄲の東に陣取らせる。一軍は成皋に陣取り、韓・魏の軍を河外に駆り立てる。一軍は澠池に陣取り、四か国と約して趙を攻める。趙が屈すれば、その地は必ず四つに分けられます。だから意図を隠さず、前もってお知らせするのです。私がひそかに大王のために考えるに、秦王と澠池で会い、顔を合わせて口で約束するのがいちばんです。どうか兵を控えて攻めないでいただきたい。大王のご決断を」。趙の粛侯はこれを受け入れた。
解説

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