長短経 / 七雄略
楚頃襄王謀與齊韓連和、因欲圗周。周赧王使臣武公説楚相昭子。昭子曰、「乃圗周則無之、雖然周何故不可圗?」對曰、「夫西周之地、絶長補短、不過百里。名為天下共主、裂其地不足以肥國、得其衆不足以勁兵、雖攻之不足以尊名。然而好事之君、喜攻之臣、發號用兵、未嘗不以周為終始、是何也?則祭器在焉。欲器之至而忘殺君之亂。今韓以器之楚、臣恐天下以器讐楚。」於是、楚計輟不行。
新字:楚頃襄王謀与斉韓連和、因欲図周。周赧王使臣武公説楚相昭子。昭子曰、「乃図周則無之、雖然周何故不可図?」対曰、「夫西周之地、絶長補短、不過百里。名為天下共主、裂其地不足以肥国、得其衆不足以勁兵、雖攻之不足以尊名。然而好事之君、喜攻之臣、発号用兵、未嘗不以周為終始、是何也?則祭器在焉。欲器之至而忘殺君之乱。今韓以器之楚、臣恐天下以器讐楚。」於是、楚計輟不行。
書き下し
楚の頃襄王、斉・韓と連和し、因りて周を図らんと欲す。周の赧王、臣武公をして楚の相昭子に説かしむ。昭子曰く「乃ち周を図るは則ち之れ無し。然りと雖も、周、何の故にか図る可からざる」と。対えて曰く「夫れ西周の地は、長を絶ち短を補うも、百里に過ぎず。名は天下の共主と為るも、其の地を裂くも以て国を肥やすに足らず、其の衆を得るも以て兵を勁くするに足らず、之を攻むと雖も以て名を尊くするに足らず。然り而して好事の君、喜攻の臣、号を発し兵を用うるに、未だ嘗て周を以て終始と為さずんばあらざるは、是れ何ぞや。則ち祭器、焉に在ればなり。器の至るを欲して君を殺すの乱を忘る。今、韓、器を以て楚に之かば、臣、天下の器を以て楚を讐とせんことを恐る」と。是に於て、楚の計、輟みて行われず。
現代語訳
楚の頃襄王が斉と韓と結んで、周を狙おうとした。周の赧王は臣の武公に楚の宰相昭子へ説かせた。昭子は言った。「周を狙うなどということはない。とはいえ、周をなぜ狙ってはいけないのか」。武公は答えた。「西周の土地は、長いところを切って短いところを補っても百里に過ぎません。名は天下の共通の主ですが、その土地を割いても国を肥やすに足りず、その民を得ても兵を強くするに足りず、攻めても名を高めるに足りない。それなのに事を好む君主や攻めたがる臣が、号令を出し兵を用いるとき、必ず周を始めと終わりに置くのはなぜか。祭器がそこにあるからです。器を手に入れたいと思うあまり、君を殺す乱を忘れる。いま韓が器を持って楚へ行けば、天下が器のゆえに楚を仇とすることを恐れます」。そこで楚の計画は止まって行われなかった。
解説

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