長短経 / 覇図
宻日「智哉。」欲不戰。王伯當、單雄信曰、「天下安樂、百姓無事、耨文采墨、從容於廟堂、武不如文、四海沸騰、英雄競起、角帝圖王、蕩清氛祲、文不如武。各有其時、不可戾也。越王滛虐之餘、天厭之乆矣。且天命不常、能者代之、何曲直之有?請以定亂属武臣、制治属文吏。今日不戰、大事去矣。」宻遂用單雄信䇿。合戰、宻師敗績。世充乘勝趨洛口。宻左長史邴元真以倉城降。宻奔武牢、不敢入。北渡河、遂奔唐。初、王伯當與單雄信、徐世勣俱為宻将、軍中號為三傑。故宻信之而大戰。〕
新字:密日「智哉。」欲不戦。王伯当、単雄信曰、「天下安楽、百姓無事、耨文采墨、従容於廟堂、武不如文、四海沸騰、英雄競起、角帝図王、蕩清氛祲、文不如武。各有其時、不可戻也。越王淫虐之余、天厭之久矣。且天命不常、能者代之、何曲直之有?請以定乱属武臣、制治属文吏。今日不戦、大事去矣。」密遂用単雄信策。合戦、密師敗績。世充乗勝趨洛口。密左長史邴元真以倉城降。密奔武牢、不敢入。北渡河、遂奔唐。初、王伯当与単雄信、徐世勣倶為密将、軍中号為三傑。故密信之而大戦。〕
書き下し
密曰く「智なるかな」と。戦わざらんと欲す。王伯当・単雄信曰く「天下安楽にして、百姓事無ければ、文を耨り墨を采り、廟堂に従容たり。武は文に如かず。四海沸騰し、英雄競い起こり、帝を角し王を図り、氛祲を蕩清す。文は武に如かず。各々其の時有り。戻る可からざるなり。越王は淫虐の余なり。天、之を厭うこと久し。且つ天命は常ならず。能者、之に代わる。何の曲直か之れ有らん。請う、乱を定むるは武臣に属し、治を制するは文吏に属せよ。今日戦わずんば、大事去らん」と。密、遂に単雄信の策を用う。合戦して、密の師、敗績す。世充、勝ちに乗じて洛口に趨く。密の左長史邴元真、倉城を以て降る。密、武牢に奔るも、敢えて入らず。北のかた河を渡り、遂に唐に奔る。初め、王伯当と単雄信・徐世勣と、倶に密の将たり。軍中に号して三傑と為す。故に密、之を信じて大いに戦う。〉
現代語訳
李密は「賢い」と言い、戦わないでおこうとした。王伯当と単雄信が言った。「天下が安らかで民に事がなければ、文を耕し墨を採り、朝堂でゆったりしている。武は文に及ばない。天下が沸き立ち、英雄が競い起こり、帝位を争い王を図り、妖気を清める。そのときは文が武に及ばない。それぞれに時があり、逆らえません。越王は淫虐の後を継いだ者で、天が見限って久しい。それに天命は一定ではなく、能ある者が代わる。曲直など何がありましょう。乱を定めるのは武臣に、治を整えるのは文吏に任せてください。今日戦わなければ、大事は去ります」。李密はついに単雄信の策を用いた。合戦して李密の軍は敗れた。王世充は勝ちに乗じて洛口へ進んだ。李密の左長史邴元真は倉城ごと降った。李密は武牢へ逃げたが入れず、北へ黄河を渡って唐へ走った。はじめ、王伯当と単雄信と徐世勣はともに李密の部将で、軍中で三傑と呼ばれた。だから李密は彼らを信じて大いに戦った。〉
解説

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