長短経 / 覇図
韓擒虎入自南掖門、文武各官皆遁、出擒後主〔隋帥之入也、僕射袁憲勸端坐殿上、正色待之。後主曰、「鋒刃之下、未可交當、吾自有計。」乃逃于井、隋軍人以䋲引之、驚其太重、乃與張貴妃、孔貴人同乘而上。隋文帝聞之大驚。鮑宏對曰、「東井于天文為秦分、今王都所在。投井、其天意也。」先是江東多唱王獻之〈桃葉辭〉、云、「桃葉復桃葉、渡江不用檝但渡無所苦、我自迎接汝。」及晉王廣軍於六合鎮、其山名「桃葉」、果乗陳舩而渡之也。〕
新字:韓擒虎入自南掖門、文武各官皆遁、出擒後主〔隋帥之入也、僕射袁憲勧端坐殿上、正色待之。後主曰、「鋒刃之下、未可交当、吾自有計。」乃逃于井、隋軍人以䋲引之、驚其太重、乃与張貴妃、孔貴人同乗而上。隋文帝聞之大驚。鮑宏対曰、「東井于天文為秦分、今王都所在。投井、其天意也。」先是江東多唱王献之〈桃葉辞〉、云、「桃葉復桃葉、渡江不用檝但渡無所苦、我自迎接汝。」及晋王広軍於六合鎮、其山名「桃葉」、果乗陳舩而渡之也。〕
書き下し
韓擒虎、南掖門より入る。文武の各官皆な遁る。後主を擒にして出づ。〈隋帥の入るや、僕射袁憲、端坐して殿上にし、色を正して之を待たんことを勧む。後主曰く「鋒刃の下、未だ交え当たる可からず。吾、自ら計有り」と。乃ち井に逃る。隋の軍人、縄を以て之を引く。其の太だ重きに驚く。乃ち張貴妃・孔貴人と同に乗じて上る。隋の文帝、之を聞きて大いに驚く。鮑宏対えて曰く「東井は天文に於て秦の分と為す。今、王都の在る所なり。井に投ずるは、其れ天意なり」と。先に是れ、江東に多く王献之の桃葉の辞を唱う。云う「桃葉、復た桃葉、江を渡るに檝を用いず。但だ渡るに苦しむ所無し。我、自ら汝を迎接せん」と。晋王広の六合鎮に軍するに及び、其の山、桃葉と名づく。果たして陳の船に乗じて之を渡るなり。〉
現代語訳
韓擒虎が南の掖門から入った。文武の官はみな逃げた。後主を捕らえて出た。〈隋の将が入ってきたとき、僕射の袁憲は正殿にきちんと座り、顔色を正して待つよう勧めた。後主は言った。「刃の下では立ち向かえない。私には私の考えがある」。そして井戸に逃げ込んだ。隋の兵が縄で引き上げた。あまりに重いので驚いた。張貴妃と孔貴人と一緒に乗って上がってきたのだった。隋の文帝はこれを聞いて大いに驚いた。鮑宏が答えて言った。「東井は天文では秦の分野です。いま都のあるところです。井戸に飛び込んだのは天意でしょう」。これより先、江東で王献之の桃葉の歌がよく歌われた。「桃葉よ、また桃葉よ、川を渡るのに櫂は要らない。ただ渡るのに苦しむことはない。私が自分でお前を迎えに行く」。晋王広が六合鎮に陣したとき、その山は桃葉という名だった。果たして陳の船に乗って渡った。〉
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』覇図晋王広、入りて台城に拠り、後主を東宮に送る。已にして、後主と王公百司と、建鄴より発して長安に之く。京師に至るに及び、輿服を列陳し、後主及び王公を引く。詔を宣べて後主を譲めしむ。後主、息を屏めて対うる能わず。長城公に封ず。〈隋の文帝、東巡して、芒山に登る。後主、侍飲し、詩を賦して曰く「日月は天徳に光り、山河は帝居に壮んなり。太平、以て報ゆる無し。願わくは東封の書を上らん」と。出づるに及び、隋の文帝、之を目送して曰く「此の敗、豈に詩酒に由らざらんや。詩を作る功夫を将て、安き時の事を思うに何如ならん」と。〉
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『長短経』覇図晋王広を以て元帥と為し、八十総管を督して以て討を致す。〈初め、隋師、璽書を送り、後主の悪を暴くこと、三十万紙。遍く江東に諭す。諸軍既に江を下る。鎮、或いは相い継ぎて奏聞す。沈客卿、機密を掌り、抑えて言わず。隋軍、江に臨む。後主曰く「王気、此に在り。斉兵三度来たり、周兵再度至るも、摧没せざる無し。虜、今来たるも、必ず自ら敗れん」と。酒を縦にし詩を作りて輟めず。隋軍、或いは進みて姑孰を抜き、或いは曲阿の衝を断つ。乃ち詔を下して曰く「犬羊凌縦し、郊畿を侵竊す。蜂蠆に毒有り。宜しく時に掃定すべし」と。蕭摩訶を以て皇畿大都督と為し、兵を分かちて要害を守らしめ、僧尼道士も役に執わしむ。隋軍、南北道並びに進み、衆軍敗績す。〉
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『長短経』覇図仁寿四年に至り、洛陽に終わる。〈先に是れ、蔣山の衆鳥、翼を鼓し膺を撫して曰く「奈何ぞ帝、奈何ぞ帝」と。後主の東宮に在る時、鳥有り一足にして、其の殿庭に集まり、觜を以て地を画して文を成す。曰く「独足、高台に上る。盛草、化して灰と為る。吾が家の処を知らんと欲せば、朱関、当に水に開くべし」と。解する者以為えらく、独足は後主の独り行きて衆無きを言い、盛草は荒穢を言う。隋は火運を承く。火を得て灰と為る。京師に至るに及び、都水台に家す。所謂高台、水に当たるなり。会稽の人史溥有り。曽て朱衣を着けたる人、武冠して天より下るを夢む。手を以て金牌を執る。溥、往きて看るに、上の文に曰く「陳氏五主、三十四年」と。陳亡ぶ。果たして夢の如し。梁末の童謡に曰く「憐れむ可し巴馬の子、一日に千里を行く。馬上の郎を見ずして、但だ黄塵の起こるを見る。黄塵、人の衣を汚す。皂莢、相い料理す」と。僧弁滅び、群臣、謡言を以て奏す。言う、僧弁、本と巴馬に乗じて侯景を撃つと。馬上の郎は、王の字なり。塵は陳を謂うなり。而して皂莢の謂いを解せず。既にして陳、隋に滅ぶ。説く者以為えらく、江東は羯羊の角を以て皂莢と為す。隋氏の姓は楊なり。楊は羊なり。終に隋に滅ぶを言うなり。北斉の末、諸省の官、多く省主と称す。主、将に省みられんとするなり。則ち興亡の兆し、尽く徴有りと云う。〉
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『長短経』覇図隋の文帝、初め周の禅を受け、甚だ隣好を敦くす。宣帝崩ず。使いを遣わして弔に赴き、敵国の礼を修め、書に名を称して頓首す。而して後主、驕奢にして、書末に云う「想うに彼の統内も宜しきが如く、此の宇宙は清泰なり」と。隋の文帝悦ばず、以て朝臣に示す。賀若弼・楊素等、以て主辱めらると為し、再拝して罪を請い、並びに討を致さんことを求む。文帝曰く「我、人の父母と為る。豈に一衣帯水に限りて之を拯わざる可けんや」と。戦船を作らしむ。〈人、之を密にせんことを請う。文帝曰く「吾、将に顕らかに天誅を行わんとす。何の密か之れ有らん。柹を江に投ぜしめよ。若し彼、能く改めば、我、又た何をか求めん」と。〉
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『長短経』覇図大唐、王世充、越王侗を洛陽に殺し、僭りて尊号を称す。隋氏滅ぶ。〈梁の時、沙門宝誌、書を為りて曰く「三を牽きて九に就く。索虜、殿を下りて走る。意は東南に遊ばんと欲するも、厄は彭城の口に在り」と。今茲三月、江東の童謡に曰く「江水何ぞ冷冷たる、楊柳何ぞ青青たる。人、今、正に楽しみを好むも、已に復た彭城を戍る」と。三を牽きて九に就くは、十二年なり。戍は輸を言うなり。呉人は北人を謂いて虜と為す。江都の西に彭城村有り、村に彭城水有り。上、其の水を引きて西閣の下に入る。果たして此に於て執えらる。初め、上、江都に在り、英雄競い起こると聞き、皆な曰く「此れ乃ち狂賊なり。終に成す所無からん」と。義師起こると聞くに及び、上、方に臥す。驚き起ちて曰く「此れ之を得たり。楊広は博覧多聞なるも、学の淵きを知らず。天子と為るに、安くんぞ聖を用いんや」と。心を撫して歎ずること久しく、復た臥して曰く「王者は死せず。天、自ら人を成すなり」と。〉
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『長短経』覇図五月戊子、天子侑、位を別宮に遜り、位を唐に禅る。長安に都す。〈大業の末、謡に曰く「桃李子、洪水遠し、楊山宛として花園の裏に在り」と。李は、唐の姓なり。洪水なる者は、唐王の諱なり。楊は、隋の姓なり。花なる者は、葉ありて実らざるなり。園は、囿なり。代王の名は侑、囿と音を同じくす。言うこころは、楊侑、帝と為ると雖も、終に暦数に帰する有り、唐王、当に其の位を践むべし、と。〉己巳、王世充・段達等、越王侗を立てて皇帝と為す、洛陽に於て。