長短経 / 覇図
張淹迷昧、不顧本朝、爰自南區、志圖東夏、潜軍間入、竊覬不虞、於時江服未夷、皇途薦阻。公忠義奮發、在險彌亮、以寡制衆、所向風偃。朝廷無東顧之憂、閩越有來蘇之望、此又公之功也。匈奴野心、侵掠疆埸醜羯侜張、勢振彭泗。公奉辭伐罪、戒旦晨征、兵車始交、氛䘲時蕩、弔死扶傷、𢎞宣皇澤、俾我淮淝、復沾盛化、此又公之功也。
新字:張淹迷昧、不顧本朝、爰自南区、志図東夏、潜軍間入、窃覬不虞、於時江服未夷、皇途薦阻。公忠義奮発、在険弥亮、以寡制衆、所向風偃。朝廷無東顧之憂、閩越有来蘇之望、此又公之功也。匈奴野心、侵掠疆埸醜羯侜張、勢振彭泗。公奉辞伐罪、戒旦晨征、兵車始交、氛䘲時蕩、弔死扶傷、弘宣皇沢、俾我淮淝、復沾盛化、此又公之功也。
書き下し
張淹、迷昧にして、本朝を顧みず。爰に南区より、志は東夏を図る。潜軍にして間に入り、竊かに不虞を覬う。時に於て江服未だ夷らかならず、皇途薦りに阻まる。公、忠義奮発し、険に在りて弥々亮らかなり。寡を以て衆を制し、向かう所風のごとく偃す。朝廷に東顧の憂い無く、閩越に来蘇の望み有り。此れ又た公の功なり。匈奴、野心あり、疆場を侵掠す。醜羯、侜張し、勢いは彭泗に振るう。公、辞を奉じて罪を伐ち、旦を戒めて晨に征す。兵車始めて交わり、氛祲時に蕩う。死を弔い傷を扶け、皇沢を弘宣す。我が淮淝をして、復た盛化に沾わしむ。此れ又た公の功なり。
現代語訳
張淹は迷い惑って、本朝を顧みなかった。南の地方から、東方を狙う志を抱いた。ひそかに軍を進めて隙に入り込み、思いがけない機会をうかがった。当時、長江一帯はまだ静まらず、朝廷への道はしばしば阻まれた。公は忠義に奮い立ち、危険な場面でますます明らかだった。少数で多数を制し、向かうところ風になびくように伏した。朝廷に東を心配する憂いがなくなり、閩と越には蘇りを待つ望みが生まれた。これもまた公の功である。匈奴が野心を抱き、国境を侵し略奪した。羯の者どもが偽り欺き、勢いは彭城と泗水に振るった。公は詔を奉じて罪を伐ち、夜明けを待って朝に出征した。兵車が交わったとたん、妖気は払われた。死者を弔い傷ついた者を助け、皇帝の恵みを広めた。わが淮水と淝水に、再び盛んな教化が及んだ。これもまた公の功である。
解説

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