武士道 / 第十六章 武士道の命脈・吾人を刺励したるは純粋簡易の武士道
况んや彼等宣教師は、互に榮を他に歸すべしとの聖書の訓戒を固守して、何等の證左も無きに、自から己れに名譽を收めんすること無からんは、更に其職に忠なるの所以なるをや。予は自から信ず、基督教宣教師は、日本に對し、殊に教育、就中道德教育の領域に於て大いに盡瘁する所ありと。されど唯だ、聖靈の活動は確乎たりと雖、尙ほ玄妙不可思議にして神祕の裡に隱れて現はれざるなり。宣教師等の事業は、尙ほ悉く間接の効果を來すものに過ぎず、否基督教傳道の事業は、新日本の特質を形成するに於て、其功の殆んど認むべきものなし。否、幸福にも患難にも吾人を刺勵したるものは實に純粹簡易の武士道なりき。新日本建設者たる佐久間、西鄕、大久保、木戶諸氏の傳記を繙いて之を見よ。
新字:況んや彼等宣教師は、互に栄を他に帰すべしとの聖書の訓戒を固守して、何等の證左も無きに、自から己れに名誉を収めんすること無からんは、更に其職に忠なるの所以なるをや。予は自から信ず、基督教宣教師は、日本に対し、殊に教育、就中道徳教育の領域に於て大いに尽瘁する所ありと。されど唯だ、聖霊の活動は確乎たりと雖、尚ほ玄妙不可思議にして神秘の裡に隠れて現はれざるなり。宣教師等の事業は、尚ほ悉く間接の効果を来すものに過ぎず、否基督教伝道の事業は、新日本の特質を形成するに於て、其功の殆んど認むべきものなし。否、幸福にも患難にも吾人を刺勵したるものは実に純粋簡易の武士道なりき。新日本建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸諸氏の伝記を繙いて之を見よ。
書き下し
いわんや彼等宣教師は、互に栄を他に帰すべしとの聖書の訓戒を固守して、何等の証左も無きに自から己れに名誉を収めんとすること無からんは、更に其職に忠なるの所以なるをや。予は自から信ず、基督教宣教師は日本に対し、殊に教育、就中道徳教育の領域に於て大いに尽瘁する所ありと。されどただ、聖霊の活動は確乎たりと雖、なお玄妙不可思議にして神秘の裡に隠れて現はれざるなり。宣教師等の事業はなお悉く間接の効果を来すものに過ぎず、否、基督教伝道の事業は、新日本の特質を形成するに於て、其功の殆んど認むべきものなし。否、幸福にも患難にも吾人を刺励したるものは、実に純粋簡易の武士道なりき。新日本建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸諸氏の伝記を繙いて之を見よ。
現代語訳
まして宣教師たちは、互いに栄光を他に帰すべきだという聖書の戒めを固く守り、何の証拠もないのに自分で自分に名誉を収めようとしないのが、いっそうその職務に忠実であるゆえんです。私は信じます。キリスト教の宣教師は日本に対して、とくに教育、なかでも道徳教育の領域で大いに尽力したと。しかし聖霊の働きは確かであっても、なお奥深く不思議で、神秘のうちに隠れて現れないものです。宣教師たちの事業はすべて間接の効果をもたらすにすぎず、いや、キリスト教の伝道の事業は、新しい日本の特質を形作るうえで、その功績をほとんど認めることができません。いや、幸福においても患難においても私たちを励ましたのは、実に純粋で簡素な武士道でした。新しい日本を建てた佐久間、西郷、大久保、木戸といった人々の伝記をひもといてご覧なさい。
解説
この章句が説くこと
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牧民忠告・事長是非毀誉(きよ)は、古(いにしえ)より政を為すに無き能わざる所なり。是(ぜ)は則ち人に帰し、非は則ち己に帰す。誉を聞けば則ち人に帰し、毀(そし)りを聞けば則ち己に帰す。長と無く弐と無く、之に処するは皆当に是くの如くなるべし。前輩雲えること有り、「恩は己より出でんことを欲すれば、怨みは将に誰にか帰せんとする」と。嗚呼、此れ真に博大なる君子の言なり。
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論語・憲問篇子路曰く、「桓公、公子糾を殺す。召忽之に死し、管仲は死せず。」曰く、「未だ仁ならざるか。」子曰く、「桓公、諸侯を九合し、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如かんや、其の仁に如かんや。」
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『墨子』耕柱子墨子に反して反る者有り、「我れ豈に罪有らんや。吾れは後れて反る」と。子墨子曰く、「是れ猶お三軍北げて、後れたる人の賞を求むるがごときなり」と。
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論語・憲問篇子貢曰く、「管仲は仁者に非ざるか。桓公、公子糾を殺すに、死する能わず、又之を相く。」子曰く、「管仲、桓公を相けて、諸侯に霸たり、天下を一匡す。民今に到るまで其の賜を受く。管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。豈に匹夫匹婦の諒を為すが若く、自ら溝瀆に経れて、之を知らるること莫からんや。」
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『後世への最大遺物』第一回・安治川を切った人大阪の天保山を切ったのも近ごろのことでございます。かの安治川を切った人は、実に日本にとって非常な功績をなした人であると思います。安治川があるために、大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それがために水害の患を取り除いてしまったばかりでなく、深い港を拵えて、九州、四国から来る船をことごとくあそこに繋ぐようになったのでございます。また秀吉の時代に切った吉野川は、昔は大阪の裏を流れておって人民を艱ましたのを、堺と住吉の間に開鑿しまして、それがために大和川の水害というものがなくなって、何十ヵ村という村が大阪の城の後ろにできました。これまた非常な事業です。それから有名の越後の阿賀川を切ったことでございます。
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孔子家語・六本孔子、斉の景公に見ゆ。公悦びて、廩丘の邑を置きて以て養と為さんことを請う。孔子辞して受けず。入りて弟子に謂いて曰わく、「吾聞く、君子は功を賞せられて賞を受くと。今吾斉君に言うも、君未だ之れを行うこと有らず、而して吾に邑を賜う。其れ丘を知らざること亦た甚だし。」是に於いて遂に行る。