長短経 / 覇図
齊太祖髙皇帝諱道成、姓蕭氏、東海蘭陵人也。為輔國將軍。宋明帝初、㑹稽太守尋陽王子房及在東諸郡起兵。徐州刺史薛安都據彭城、歸魏、遣從子索兒攻淮隂。晉安王勛遣臨川内史張淹自鄱陽道入三吴、帝並討平之、使鎮淮隂。七年、徴還都〔宋明帝嫌帝非人臣相、而人間流言帝為天子、愈以為疑。帝初見徵、部下勸勿就徵、帝曰、「主上自誅諸弟、為太子㓜弱、作萬嵗後計、何關他族?唯應速發、緩當見疑。骨肉相殘、自非靈長之運、禍難方興、與卿等戮力也。〕
新字:斉太祖高皇帝諱道成、姓蕭氏、東海蘭陵人也。為輔国将軍。宋明帝初、会稽太守尋陽王子房及在東諸郡起兵。徐州刺史薛安都拠彭城、帰魏、遣従子索児攻淮陰。晋安王勛遣臨川内史張淹自鄱陽道入三呉、帝並討平之、使鎮淮陰。七年、徴還都〔宋明帝嫌帝非人臣相、而人間流言帝為天子、愈以為疑。帝初見徴、部下勧勿就徴、帝曰、「主上自誅諸弟、為太子幼弱、作万歳後計、何関他族?唯応速発、緩当見疑。骨肉相残、自非霊長之運、禍難方興、与卿等戮力也。〕
書き下し
斉の太祖高皇帝、諱は道成、姓は蕭氏、東海蘭陵の人なり。輔国将軍と為る。宋の明帝の初め、会稽太守尋陽王子房及び東に在る諸郡、兵を起こす。徐州刺史薛安都、彭城に拠りて魏に帰し、従子の索児を遣わして淮陰を攻めしむ。晋安王勛、臨川内史張淹を遣わして鄱陽の道より三呉に入らしむ。帝、並びに之を討ち平らげ、淮陰に鎮せしむ。七年、徴して都に還る。〈宋の明帝、帝の人臣の相に非ざるを嫌う。而して人間に帝を天子と為すと流言す。愈々以て疑いを為す。帝、初め徴せらるるを見て、部下、徴に就く勿かれと勧む。帝曰く「主上、自ら諸弟を誅するは、太子の幼弱なるが為に、万歳の後の計を作すなり。何ぞ他族に関せんや。唯だ応に速やかに発すべし。緩くんば当に疑わるべし。骨肉相い残するは、自ら霊長の運に非ず。禍難方に興る。卿等と力を戮せん」と。〉
現代語訳
斉の太祖高皇帝は諱を道成、姓を蕭氏といい、東海蘭陵の人である。輔国将軍となった。宋の明帝の初め、会稽太守の尋陽王子房と東方の諸郡が兵を挙げた。徐州刺史の薛安都は彭城に拠って魏に帰し、甥の薛索児を遣わして淮陰を攻めさせた。晋安王勛は臨川内史の張淹を遣わして鄱陽の道から三呉へ入らせた。帝はこれらをみな討ち平らげ、淮陰に鎮した。七年、召されて都へ戻った。〈宋の明帝は蕭道成の人相が臣下のものでないのを嫌った。しかも世間で蕭道成が天子になるという噂が流れた。ますます疑った。蕭道成は召し出されたとき、部下は召しに応じるなと勧めた。蕭道成は言った。「主上が自ら弟たちを誅したのは、太子が幼いので、自分の死後の備えをしているのだ。他家に関わることではない。ただ速やかに出発すべきだ。ぐずぐずすれば疑われる。骨肉が殺し合うのは、長続きする運ではない。禍難はこれから起きる。あなたたちと力を合わせよう」。〉
解説

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