長短経 / 覇図
六月、慕容超使五樓㨿臨朐羸老守廣固。聞軍近、超亦會焉。拒臨朐四十里有巨蔑水、超使五樓往㨿之、曰、「晉軍得水則難敗也。」五樓馳進。前鋒孟龍符奔就、爭先得據之。五樓退、大軍冇四千人、分為兩翼、方軌徐進、未及臨朐、賊騎交至。龍符等拒之、曰向昃戰猶酣。髙祖謂檀韶等曰、「虜之精兵悉於是矣、臨朐留守必將寡弱。子以潜軍踰其後、往必尅城、多易旗幟、此韓信所以克趙也。且吾前言兵自海道往、必聲之。」韶等鼔行而進。賊望曰、每軍至。」超棄城走、遂尅之。軍聞城陷、懼而不敢動、髙祖親鼓、士卒咸奮、大奔崩之。超奔廣固、進軍圍之、城陷獲超、歸於京師、斬於建康市。〕
新字:六月、慕容超使五楼拠臨朐羸老守広固。聞軍近、超亦会焉。拒臨朐四十里有巨蔑水、超使五楼往拠之、曰、「晋軍得水則難敗也。」五楼馳進。前鋒孟竜符奔就、争先得拠之。五楼退、大軍冇四千人、分為両翼、方軌徐進、未及臨朐、賊騎交至。竜符等拒之、曰向昃戦猶酣。高祖謂檀韶等曰、「虜之精兵悉於是矣、臨朐留守必将寡弱。子以潜軍踰其後、往必尅城、多易旗幟、此韓信所以克趙也。且吾前言兵自海道往、必声之。」韶等鼓行而進。賊望曰、毎軍至。」超棄城走、遂尅之。軍聞城陥、懼而不敢動、高祖親鼓、士卒咸奮、大奔崩之。超奔広固、進軍囲之、城陥獲超、帰於京師、斬於建康市。〕
書き下し
六月、慕容超、五楼をして臨朐に拠らしめ、羸老もて広固を守らしむ。軍の近づくを聞き、超も亦た焉に会す。臨朐を拒つこと四十里に巨蔑水有り。超、五楼をして往きて之に拠らしめて曰く「晋軍、水を得れば則ち敗り難きなり」と。五楼、馳せ進む。前鋒の孟龍符、奔り就き、先を争いて之に拠るを得たり。五楼退く。大軍、四千人有り、分かちて両翼と為し、軌を方べて徐々に進む。未だ臨朐に及ばざるに、賊騎交々至る。龍符等之を拒ぐ。昃に向かうも戦い猶お酣なり。高祖、檀韶等に謂いて曰く「虜の精兵、悉く是に於てす。臨朐の留守、必ず将に寡弱ならんとす。子、潜かに軍を以て其の後を踰えよ。往かば必ず城に克たん。多く旗幟を易えよ。此れ韓信の趙に克ちし所以なり。且つ吾、前に兵は海道より往くと言えり。必ず之を声せよ」と。韶等、鼓行して進む。賊望みて曰く「海軍至れり」と。超、城を棄てて走る。遂に之に克つ。軍、城の陥るを聞き、懼れて敢えて動かず。高祖、親ら鼓す。士卒咸な奮い、大いに之を奔崩せしむ。超、広固に奔る。軍を進めて之を囲み、城陥りて超を獲たり。京師に帰り、建康の市に斬る。〉
現代語訳
六月、慕容超は公孫五楼に臨朐を守らせ、老兵で広固を守らせた。軍が近づいたと聞いて、慕容超もそこへ合流した。臨朐から四十里のところに巨蔑水があった。慕容超は公孫五楼にそこを押さえさせ、「晋軍が水を得れば破りにくい」と言った。公孫五楼が駆け進んだ。先鋒の孟龍符が走り込んで、先を争って押さえた。公孫五楼は退いた。大軍は四千人で、二翼に分け、車を並べてゆっくり進んだ。臨朐に着かないうちに敵の騎兵が次々と来た。孟龍符らが防いだ。日が傾いても戦いは激しかった。高祖は檀韶らに言った。「敵の精兵はここに全部出ている。臨朐の留守は必ず手薄だ。あなたはひそかに軍で背後を越えよ。行けば必ず城を落とせる。旗を多く取り替えよ。これが韓信が趙に勝った方法だ。それに私は以前、兵は海路から来ると言った。必ずそれを触れ回れ」。檀韶らは太鼓を鳴らして進んだ。賊は遠くから見て「海からの軍が来た」と言った。慕容超は城を棄てて逃げた。こうして城を落とした。軍は城が落ちたと聞いて、恐れて動けなくなった。高祖は自ら太鼓を打った。兵はみな奮い立ち、大いに崩れさせた。慕容超は広固へ逃げた。軍を進めて囲み、城が落ちて慕容超を捕らえた。都に送り、建康の市で斬った。〉
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』覇図鮮卑の慕容超、青州に拠守し、燕王と称す。高祖征して、超を擒にす。〈初め、超の叔父徳、三斉を盗有す。徳死し、超、其の位を襲い、遂に淮北を寇す。高祖、将に中華に事有らんとす。其の侵すに因りて、乃ち北のかた超を伐つ。大将軍公孫五楼、超に説きて曰く「呉兵は軽鋭にして、与に鋒を争い難し。大峴を截断して、入るを得ざらしむるは、上策なり。壁を堅くし野を青くし、粟麦を芟除するは、中策なり。城に拠りて戦いを待つは、下策なり」と。超曰く「引きて峴を過ぎしめ、我、鉄騎を以て之を躙らば、擒を成さん。何ぞ野を青くして、自ら蹙弱を取らんや」と。初め此の役を謀るや、諫むる者申す「賊、若し厳しく大峴を守らば、則ち広固に壁を堅くし、守りて出でず。軍に資する所無くんば、何ぞ能く自ら支えん」と。高祖曰く「然らず。鮮卑は性貪にして、略は遠きに及ばず。既に其の勝ちを幸い、且つ其の穀を愛す。我を孤軍と謂い、将に久しきに及ばざらんとし、必ず将に我を引かんとし、且つ軽戦を示さん。師、一たび峴に入らば、吾、何をか患えんや」と。既に峴を踰ゆるに、虜軍未だ出でず。高祖喜びて曰く「天、我を賛くるなり」と。衆曰く「軍未だ克たず。公、何ぞ悦ぶか」と。高祖曰く「師、既に険を過ぐれば、士に必死の志有り。余糧、畝に棲めば、軍に匱乏の憂い無し。虜、吾が計に堕つ。勝ち、必とす可きなり」と。
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『長短経』覇図何無忌の辞なり。桓玄、桓謙をして東陵に屯せしめ、卞範之をして覆舟山に屯せしむ。義軍、朝食して、其の余を并せて進み、覆舟山の東に造る。羸兵をして山に登らしめ、多く旗幟を張り、山谷に布満せしむ。高祖、衆を率いて之に奔る。士は皆な殊死して戦い、謙の軍、一時に潰走す。玄、単騎にて江陵に走る。玄、将に蜀に入らんとし、奔りて枚回州に至る。益州参軍費恬の党に逢い、之を射殺す。〉
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『長短経』覇図高祖武皇帝、姓は劉、名は裕、字は徳輿、彭城の人なり。桓玄、晋を簒う。〈偽楚の桓玄、字は敬徳、譙国龍亢の人なり。形貌瓌特なり。江州刺史と為り、荊州刺史殷仲堪を襲い殺す。会稽王の世子元顕、政を専らにす。玄の跋扈するを以て、軍を遣わして之を征す。玄、討たるるを聞き見て、即ち衆を率いて下りて京師に至り、元顕を殺す。詔して玄を以て丞相と為し、楚王に封ず。遂に位を禅る。〉高祖、劉毅・何無忌等と潜かに匡復を謀り、兵を起こして玄を平らぐ。〈時に桓玄、桓弘をして広陵に鎮せしむ。劉道規、弘の中兵参軍と為る。道規をして弘を襲わしむ。桓修、丹徒に鎮す。高祖、修の中兵参軍と為り、自ら修を襲う。期を克して同に発す。劉毅・道規等、既に広陵を襲い、桓弘を斬り、其の衆を以て南のかた渡る。高祖・何無忌、京師を襲い、桓修を斬る。二州の衆千二百人を率いて、進みて竹里に舎り、檄を京師に移す。曰く、
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『長短経』覇図三年、粛宗崩ず。孝武帝昌明に至りて立つ。簡文皇帝の三子なり。羝賊苻堅、淮南を寇す。晋の冠軍将軍謝玄等、大いに堅を淝水に破る。〈苻堅、百万の衆を以て淝水に至る。謝玄、乃ち勇士八千人を選び、淝水を渉り渡る。玄、使いを遣わして堅に謂いて曰く「水を阻みて陣と為さば、日を曠しくして持久せん。請う、小しく却きて、君と周旋せん」と。秦の諸将、前軍の却くを聞き、已に利を失えりと謂う。朱序の徒、声して堅敗ると云う。大軍退き、自ら相い填籍す。風声鶴唳を聞き、皆な曰く、南軍至ると。遂に大敗す。〉堅、長安に還る。〈苻堅、此に因りて卒に亡滅するなり。〉二十一年、帝崩ず。自後、遂に干戈相い継ぐ。安帝に至り、桓玄の簒う所と為る。宋祖劉裕、玄を平らぐ。恭帝に至り、遂に宋に禅る。
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『長短経』利害平旦、信は大将の旗鼓を建て、鼓行して井陘口を出づ。趙、壁を開きて之を攻撃し、大いに戦うこと良久し。是に於て信と張耳とは旗鼓を棄て、水上に走る。水上の軍、壁を開きて之を入れ、復た疾く戦う。趙は壁を空しくして漢の旗鼓を争い、韓信・張耳を逐う。韓信・張耳已に水上の軍に入る。軍皆殊死して戦い、敗るべからず。信の出だす所の奇兵二千騎、共に趙の壁を空しくして利を逐うを候い、則ち馳せて趙の壁に入り、皆趙の幟を抜き、漢の赤幟二千を立つ。趙の軍、信等を得ずして、還りて壁に帰らんと欲するに、壁皆漢の赤幟なり。而して大いに驚き〔太公曰く「夫れ両陣の間に、俾陣を出だす。卒を縦にし行を乱す者は、変を為す所以なり」と。此の謂いなり〕、以為えらく漢は皆已に趙の主将を得たりと。遂に乱れて遁走す。趙の将撃ちて之を斬ると雖も、禁ずること能わざるなり〔孫子曰く「治を以て乱を待ち、静を以て譁を待つ。此れ心を治むる者なり」と。夫れ衆心已に乱るれば、良将有りと雖も、亦た之が為に計ること能わず〕。是に於て漢兵夾撃し、大いに之を破り、成安君を泜水の上に斬り、趙王歇を擒にす。
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『長短経』覇図張淹、迷昧にして、本朝を顧みず。爰に南区より、志は東夏を図る。潜軍にして間に入り、竊かに不虞を覬う。時に於て江服未だ夷らかならず、皇途薦りに阻まる。公、忠義奮発し、険に在りて弥々亮らかなり。寡を以て衆を制し、向かう所風のごとく偃す。朝廷に東顧の憂い無く、閩越に来蘇の望み有り。此れ又た公の功なり。匈奴、野心あり、疆場を侵掠す。醜羯、侜張し、勢いは彭泗に振るう。公、辞を奉じて罪を伐ち、旦を戒めて晨に征す。兵車始めて交わり、氛祲時に蕩う。死を弔い傷を扶け、皇沢を弘宣す。我が淮淝をして、復た盛化に沾わしむ。此れ又た公の功なり。