長短経 / 覇図
譙縱大將侯暉等屯彭模。朱齡石謂劉鍾曰、「天方暑熱、賊今固險、攻之難抜秪困吾師、欲畜鋭息甲、伺隙而進、卿以為何如?」鍾曰、「不然。前揚聲言大衆由内水、故譙道福不敢捨涪。今重兵卒至、出其不意、侯暉之徒已破膽矣。暉之阻兵、非堅壁也。因其懼而攻之、其勢易克、克彭模、鼔行而前、成都不能守矣。緩兵相持、虛實將見、涪軍復來、難為敵也、若進不能戰、退無所資、二萬餘人同為蜀子虜矣。」從之。明日遂攻、皆克、斬侯暉。於是遂進克諸城、諸城守相次瓦解、縱自縊而死。〕
新字:譙縦大将侯暉等屯彭模。朱齢石謂劉鍾曰、「天方暑熱、賊今固険、攻之難抜秪困吾師、欲畜鋭息甲、伺隙而進、卿以為何如?」鍾曰、「不然。前揚声言大衆由内水、故譙道福不敢捨涪。今重兵卒至、出其不意、侯暉之徒已破胆矣。暉之阻兵、非堅壁也。因其懼而攻之、其勢易克、克彭模、鼓行而前、成都不能守矣。緩兵相持、虚実将見、涪軍復来、難為敵也、若進不能戦、退無所資、二万余人同為蜀子虜矣。」従之。明日遂攻、皆克、斬侯暉。於是遂進克諸城、諸城守相次瓦解、縦自縊而死。〕
書き下し
譙縦の大将侯暉等、彭模に屯す。朱齢石、劉鍾に謂いて曰く「天、方に暑熱なり。賊、今、険に固る。之を攻むるも抜き難く、祗だ吾が師を困しむるのみ。鋭を畜え甲を息め、隙を伺いて進まんと欲す。卿、以為えらく何如」と。鍾曰く「然らず。前に声を揚げて大衆は内水に由ると言う。故に譙道福、敢えて涪を捨てず。今、重兵卒かに至り、其の不意に出づ。侯暉の徒、已に胆を破れり。暉の兵を阻むは、壁を堅くするに非ざるなり。其の懼るるに因りて之を攻むれば、其の勢い克ち易し。彭模に克ち、鼓行して前まば、成都は守る能わざらん。兵を緩めて相い持せば、虚実将に見れんとす。涪の軍復た来たらば、敵と為し難きなり。若し進みて戦う能わず、退きて資する所無くんば、二万余人、同じく蜀子の虜と為らん」と。之に従う。明日、遂に攻め、皆な克ち、侯暉を斬る。是に於て遂に進みて諸城を克つ。諸城の守、相い次いで瓦解す。縦、自ら縊れて死す。〉
現代語訳
譙縦の大将侯暉らが彭模に駐屯した。朱齢石は劉鍾に言った。「いま暑さが厳しい。賊は険しい地に籠もっている。攻めても落とせず、ただ我が軍を疲れさせるだけだ。鋭気を蓄え武具を休め、隙を見て進みたい。どう思うか」。劉鍾は言った。「そうではありません。以前、大軍が内水から来ると触れ回った。だから譙道福は涪を離れられない。いま重兵が突然到着し、不意を突いた。侯暉らはすでに肝を潰しています。侯暉が兵を構えているのは、堅く守っているのではない。その恐れに乗じて攻めれば、勝ちやすい。彭模を落として太鼓を鳴らして進めば、成都は守れません。兵を緩めて対峙すれば、こちらの実情が見えてくる。涪の軍がまた来れば、敵として手強くなる。もし進んで戦えず、退いて拠るところもなければ、二万余人はそろって蜀の者の捕虜になります」。これに従った。翌日攻めて全部落とし、侯暉を斬った。そのまま進んで諸城を落とした。諸城の守りは次々に崩れた。譙縦は首をくくって死んだ。〉
解説

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