長短経 / 覇図
中宗元皇帝睿、乃興於江東〔睿字景文、宣帝曾孫也。元帝幼而聰敏、及中原喪亂、乃與王敦等渡江撫綏江左、甚得衆心。後王敦於武昌反、至石頭、帝攻之、不克、乃委政於敦。敦還鎮武昌。、郡〕帝在位十六年崩、太子紹立〔紹字道畿、是為肅宗明皇帝。〕王敦威振内外、將謀為逆、肅宗征破之〔用温嶠等決計征之。初、敦之謀反也、温嶠為其從事中郎、夙夜綜其府事、偽相親善、京兆尹缺、嶠説敦曰、「宜自樹腹心、以間搆人主。愚謂錢鳯可用。」敦曰、「莫若君。」嶠偽辭讓、臨别之際、嶠自起行酒。嶠偽醉、以手板擊錢鳯幘、幘為之墮、乃作色曰、「錢世儀何人、温太真自行酒而敢不飲?」鳯不悦、以醉為解。明日、嶠將發、鳯説敦留之。敦曰、「嶠常云錢世儀精神滿腹、昨小加聲色、豈得以此相讒耶?」嶠至都、陳敦反逆状〕
新字:中宗元皇帝睿、乃興於江東〔睿字景文、宣帝曽孫也。元帝幼而聰敏、及中原喪乱、乃与王敦等渡江撫綏江左、甚得衆心。後王敦於武昌反、至石頭、帝攻之、不克、乃委政於敦。敦還鎮武昌。、郡〕帝在位十六年崩、太子紹立〔紹字道畿、是為粛宗明皇帝。〕王敦威振内外、将謀為逆、粛宗征破之〔用温嶠等決計征之。初、敦之謀反也、温嶠為其従事中郎、夙夜綜其府事、偽相親善、京兆尹欠、嶠説敦曰、「宜自樹腹心、以間搆人主。愚謂銭鳳可用。」敦曰、「莫若君。」嶠偽辞譲、臨別之際、嶠自起行酒。嶠偽酔、以手板撃銭鳳幘、幘為之堕、乃作色曰、「銭世儀何人、温太真自行酒而敢不飲?」鳳不悦、以酔為解。明日、嶠将発、鳳説敦留之。敦曰、「嶠常云銭世儀精神満腹、昨小加声色、豈得以此相讒耶?」嶠至都、陳敦反逆状〕
書き下し
中宗元皇帝睿、乃ち江東に興る。〈睿は字は景文、宣帝の曽孫なり。元帝、幼くして聡敏なり。中原の喪乱に及び、乃ち王敦等と江を渡りて江左を撫綏す。甚だ衆心を得たり。後に王敦、武昌に於て反し、石頭に至る。帝、之を攻むるも克たず。乃ち政を敦に委ぬ。敦、還りて武昌に鎮す。〉帝、位に在ること十六年にして崩ず。太子紹立つ。〈紹は字は道畿、是を粛宗明皇帝と為す。〉王敦の威、内外に振るう。将に逆を為さんことを謀る。粛宗、征して之を破る。〈温嶠等を用いて計を決して之を征す。初め、敦の謀反するや、温嶠、其の従事中郎と為り、夙夜に其の府事を綜べ、偽りて相い親善す。京兆尹缺く。嶠、敦に説きて曰く「宜しく自ら腹心を樹てて、以て人主を間構すべし。愚謂えらく銭鳳用う可し」と。敦曰く「君に若くは莫し」と。嶠、偽りて辞譲す。別れに臨むの際、嶠、自ら起ちて酒を行らす。嶠、偽り酔いて、手板を以て銭鳳の幘を撃つ。幘、之が為に堕つ。乃ち色を作して曰く「銭世儀は何人ぞ。温太真、自ら酒を行らすに敢えて飲まざるか」と。鳳、悦ばず。酔いを以て解と為す。明日、嶠、将に発せんとす。鳳、敦に説きて之を留めんとす。敦曰く「嶠、常に云う、銭世儀は精神腹に満つと。昨、小しく声色を加う。豈に此を以て相い讒せんや」と。嶠、都に至り、敦の反逆の状を陳ぶ。〉
現代語訳
中宗元皇帝睿は江東で興った。〈睿は字を景文といい、宣帝の曽孫である。元帝は幼くして聡明だった。中原が乱れると、王敦らと長江を渡って江南を安んじた。たいへん人心を得た。後に王敦が武昌で反し、石頭に至った。帝は攻めたが勝てず、政を王敦に委ねた。王敦は戻って武昌に鎮した。〉帝は在位十六年で崩じた。太子の紹が立った。〈紹は字を道畿といい、これが粛宗明皇帝である。〉王敦の威は内外に響いた。謀反しようとした。粛宗は征伐して破った。〈温嶠らを用いて決断し征伐した。はじめ王敦が謀反したとき、温嶠はその従事中郎となり、朝から晩まで府の事務を統べ、偽って親しくしていた。京兆尹の職が空いた。温嶠は王敦に説いた。「自分の腹心を立てて、君主のあいだを裂くべきです。私は銭鳳が使えると思います」。王敦は「あなたに越す者はいない」と言った。温嶠は偽って辞退した。別れぎわに、温嶠は自ら立って酒をついで回った。温嶠は酔ったふりをして、手板で銭鳳の頭巾を打った。頭巾が落ちた。そして色をなして言った。「銭世儀は何者だ。温太真が自ら酒をついでいるのに飲まないのか」。銭鳳は不快になったが、酔っているからと受け流した。翌日、温嶠は出発しようとした。銭鳳は王敦に説いて引き留めようとした。王敦は言った。「温嶠はいつも銭世儀は腹に精神が満ちていると言っている。昨日少し語気を荒らげただけだ。それで讒言していると言えようか」。温嶠は都に至り、王敦の謀反の状況を報告した。〉
解説
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