長短経 / 覇図
後秦涼覆沒、帝疇咨將帥、李憙曰、「陛下誠能發匈奴五部之衆、假元海一將之號、鼓行而西、指期可定也。」孔恂曰「李公之言、未盡殄患之理。元海若能平涼州、斬樹機能、恐涼州方有難耳。蛟龍得雲雨、非復池中物也。」帝乃止。恵帝失馭、寇賊蜂起。成都王穎鎮鄴、表元海行寧朔將軍、監五部軍事。及王浚等討穎、元海説穎曰、「今二鎮跋扈、衆十餘萬、恐非宿衛及近都士衆所能禦之、請為殿下還説五部衆、以赴國難。穎從之。元海至國、左賢王劉宣等上大單于之號、二旬之間、衆以五萬、遂寇平陽、陷之、入蒲。於時五湖亂中原矣。
新字:後秦涼覆没、帝疇咨将帥、李憙曰、「陛下誠能発匈奴五部之衆、仮元海一将之号、鼓行而西、指期可定也。」孔恂曰「李公之言、未尽殄患之理。元海若能平涼州、斬樹機能、恐涼州方有難耳。蛟竜得雲雨、非復池中物也。」帝乃止。恵帝失馭、寇賊蜂起。成都王穎鎮鄴、表元海行寧朔将軍、監五部軍事。及王浚等討穎、元海説穎曰、「今二鎮跋扈、衆十余万、恐非宿衛及近都士衆所能禦之、請為殿下還説五部衆、以赴国難。穎従之。元海至国、左賢王劉宣等上大単于之号、二旬之間、衆以五万、遂寇平陽、陥之、入蒲。於時五湖乱中原矣。
書き下し
後、秦・涼覆没す。帝、将帥を疇咨す。李憙曰く「陛下、誠に能く匈奴五部の衆を発し、元海に一将の号を仮し、鼓行して西せば、期を指して定む可きなり」と。孔恂曰く「李公の言、未だ患いを殄くすの理を尽くさず。元海、若し能く涼州を平らげ、樹機能を斬らば、恐らくは涼州、方に難有らんのみ。蛟龍、雲雨を得れば、復た池中の物に非ざるなり」と。帝、乃ち止む。恵帝、馭を失い、寇賊蜂起す。成都王穎、鄴に鎮す。元海を表して寧朔将軍を行わしめ、五部の軍事を監せしむ。王浚等の穎を討つに及び、元海、穎に説きて曰く「今、二鎮跋扈し、衆は十余万。恐らくは宿衛及び近都の士衆の能く之を禦ぐ所に非ず。請う、殿下の為に還りて五部の衆に説き、以て国難に赴かん」と。穎、之に従う。元海、国に至る。左賢王劉宣等、大単于の号を上る。二旬の間に、衆は五万を以てす。遂に平陽を寇して、之を陥れ、蒲に入る。時に於て五湖、中原を乱すなり。
現代語訳
後に秦と涼が失われた。帝は将帥を広く諮問した。李憙が言った。「陛下がもし匈奴五部の兵を起こし、劉淵に一将の号を与えて、太鼓を鳴らして西へ向かわせれば、期日を指して定められます」。孔恂が言った。「李公の言葉は、憂いを絶つ道を尽くしていません。劉淵が涼州を平らげ樹機能を斬れれば、今度は涼州のほうに難が起きるでしょう。蛟龍が雲と雨を得れば、もう池の中のものではありません」。帝はそこでやめた。恵帝が統御を失い、盗賊が蜂起した。成都王穎が鄴に鎮した。劉淵を上表して寧朔将軍を代行させ、五部の軍事を監督させた。王浚らが成都王穎を討つと、劉淵は穎に説いた。「いま二つの鎮が跋扈し、兵は十余万。近衛や都の近くの兵では防げないでしょう。殿下のために帰って五部の兵に説き、国難に赴かせてください」。穎はこれに従った。劉淵は本国に至った。左賢王劉宣らが大単于の号を奉った。二十日のうちに兵は五万になった。そして平陽を襲って陥れ、蒲に入った。このとき五胡が中原を乱した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』覇図〈劉元海、匈奴の質子と為り、洛陽に在り。晋の武帝、与に語り、之を説ぶ。王渾に謂いて曰く「元海の容儀機鑒は、由余・日磾も、以て加うる無きなり」と。渾対えて曰く「元海の容儀は実に聖旨の如し。然れども其の文武の才幹は二子より賢ること遠し。陛下、若し之に任ずるに東南の事を以てせば、呉会も平らぐるに足らざるなり」と。帝、善しと称す。孔恂・楊珧曰く「臣、元海の才を観るに、当今比無し。陛下、若し其の衆を軽くせば、以て事を成すに足らず。若し之に威権を仮さば、呉を平らぐるの後、恐らくは其れ復た北のかた渡らざらん。吾が族類に非ざれば、其の心必ず異なる。之を本部に任ずるは、臣、竊かに陛下の為に寒心す。若し天阻の固きを挙げて以て之に資さば、乃ち不可ならざらんや」と。帝、黙然たり。
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『長短経』覇図張淹、迷昧にして、本朝を顧みず。爰に南区より、志は東夏を図る。潜軍にして間に入り、竊かに不虞を覬う。時に於て江服未だ夷らかならず、皇途薦りに阻まる。公、忠義奮発し、険に在りて弥々亮らかなり。寡を以て衆を制し、向かう所風のごとく偃す。朝廷に東顧の憂い無く、閩越に来蘇の望み有り。此れ又た公の功なり。匈奴、野心あり、疆場を侵掠す。醜羯、侜張し、勢いは彭泗に振るう。公、辞を奉じて罪を伐ち、旦を戒めて晨に征す。兵車始めて交わり、氛祲時に蕩う。死を弔い傷を扶け、皇沢を弘宣す。我が淮淝をして、復た盛化に沾わしむ。此れ又た公の功なり。
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『長短経』覇図恵帝、立つこと十四年にして崩ず。弟の豫章王熾立つ。〈字は豊度、是を懐帝と為す。〉長安に都し、劉聡の殺す所と為る。〈後魏の拓跋氏、晋の懐帝を以て雲中より雁門に入る。北に沙漠有り、南は陰山に拠る。衆は数十万。孝文に至り、乃ち拓跋を改めて元氏と為し、洛陽に都す。粛宗崩じ、大都督爾朱栄、荘帝を立てんことを謀る。栄、霊太后及び王公二千人を害し、荘帝を立つ。帝、爾朱栄を殺す。左僕射爾朱世隆、栄の部曲を率い、晋陽より京城を襲い、荘帝を執えて之を殺す。而して恭帝を立て、又た之を廃す。高歓、乃ち広平王の子修を知る。後に斛律斯椿の脅す所と為り、走りて関に入る。周の太祖宇文黒獺、帝を奉じて長安に都し、草萊を披きて朝廷を立つ。是を西魏と為す。
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『長短経』覇図三年、粛宗崩ず。孝武帝昌明に至りて立つ。簡文皇帝の三子なり。羝賊苻堅、淮南を寇す。晋の冠軍将軍謝玄等、大いに堅を淝水に破る。〈苻堅、百万の衆を以て淝水に至る。謝玄、乃ち勇士八千人を選び、淝水を渉り渡る。玄、使いを遣わして堅に謂いて曰く「水を阻みて陣と為さば、日を曠しくして持久せん。請う、小しく却きて、君と周旋せん」と。秦の諸将、前軍の却くを聞き、已に利を失えりと謂う。朱序の徒、声して堅敗ると云う。大軍退き、自ら相い填籍す。風声鶴唳を聞き、皆な曰く、南軍至ると。遂に大敗す。〉堅、長安に還る。〈苻堅、此に因りて卒に亡滅するなり。〉二十一年、帝崩ず。自後、遂に干戈相い継ぐ。安帝に至り、桓玄の簒う所と為る。宋祖劉裕、玄を平らぐ。恭帝に至り、遂に宋に禅る。
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『長短経』覇図荊州刺史司馬休之、反す。之を征す。〈裴子野曰く「書に称す『善を慮りて以て動き、動くは惟れ厥の時なり』と。司馬休之の動くが若きは、其の時に非ず。天、方に晋を厭う。敢えて吉を知る罔し。己に衆を得ると雖も、能く天に違わんや。五運推移し、亡びざるの国有ること無し。廃姓の乱に処るを為して、朝賢は三仁の若きも、且つ猶お顛沛す。而るに況んや豪俠の者をや。昔、中原殄滅し、衣冠の道尽く。時に於て四海争いて中宗を奉ず。豈に徒だ晋の徳に繋がるのみならんや。実に大いに礼義有り。故に能く遂に南国を兼ぬ。其の興るや勃焉たり。義熙に至りては、是に異ならんことを欲せざるなり。而るに宗室交々流れ、未だ前事を忘れず。波迸越逸し、禍敗相い尋ぐ。豈に龕黎の伐、弘だ多く、将た周を咎むるの徒、孔だ熾んならんや。興廃に達せず、何ぞ其れ黯きや」と。〉
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『長短経』覇図高祖武皇帝、姓は劉、名は裕、字は徳輿、彭城の人なり。桓玄、晋を簒う。〈偽楚の桓玄、字は敬徳、譙国龍亢の人なり。形貌瓌特なり。江州刺史と為り、荊州刺史殷仲堪を襲い殺す。会稽王の世子元顕、政を専らにす。玄の跋扈するを以て、軍を遣わして之を征す。玄、討たるるを聞き見て、即ち衆を率いて下りて京師に至り、元顕を殺す。詔して玄を以て丞相と為し、楚王に封ず。遂に位を禅る。〉高祖、劉毅・何無忌等と潜かに匡復を謀り、兵を起こして玄を平らぐ。〈時に桓玄、桓弘をして広陵に鎮せしむ。劉道規、弘の中兵参軍と為る。道規をして弘を襲わしむ。桓修、丹徒に鎮す。高祖、修の中兵参軍と為り、自ら修を襲う。期を克して同に発す。劉毅・道規等、既に広陵を襲い、桓弘を斬り、其の衆を以て南のかた渡る。高祖・何無忌、京師を襲い、桓修を斬る。二州の衆千二百人を率いて、進みて竹里に舎り、檄を京師に移す。曰く、