長短経 / 覇図
紹果為曹公所敗。紹進保武陽與操相持。沮授又説曰、「北兵雖衆、而果勁不及南、南穀虛少、而財貨不及北。南利在於急戰、北利在於緩搏、宜修持乆、曠以日月。」紹不從。連營漸逼官渡。許攸進曰、「曹操兵少、而悉師拒我、許下餘守、勢必虚弱。若分遣輕騎、星行襲、許㧞、則操為成擒。如其未潰、可令首尾奔命、破之必也。」紹又不能用。
新字:紹果為曹公所敗。紹進保武陽与操相持。沮授又説曰、「北兵雖衆、而果勁不及南、南穀虚少、而財貨不及北。南利在於急戦、北利在於緩搏、宜修持久、曠以日月。」紹不従。連営漸逼官渡。許攸進曰、「曹操兵少、而悉師拒我、許下余守、勢必虚弱。若分遣軽騎、星行襲、許抜、則操為成擒。如其未潰、可令首尾奔命、破之必也。」紹又不能用。
書き下し
紹、果たして曹公の敗る所と為る。紹、進みて武陽を保ち、操と相い持す。沮授、又た説きて曰く「北兵は衆しと雖も、果勁は南に及ばず。南の穀は虚少なるも、財貨は北に及ばず。南の利は急戦に在り、北の利は緩搏に在り。宜しく持久を修め、曠しくするに日月を以てすべし」と。紹従わず。連営して漸く官渡に逼る。許攸、進みて曰く「曹操は兵少なくして、師を悉くして我を拒ぐ。許下の余守、勢い必ず虚弱ならん。若し軽騎を分遣し、星行して襲わば、許抜けて、則ち操は擒を成さん。如し其れ未だ潰えずんば、首尾をして奔命せしむ可し。之を破ること必せん」と。紹、又た用うる能わず。
現代語訳
袁紹は果たして曹操に敗れた。袁紹は進んで武陽を保ち、曹操と対峙した。沮授がまた説いた。「北の兵は数が多いが、果敢さと強さでは南に及ばない。南の穀物は乏しいが、財貨では北に及ばない。南の利は急戦にあり、北の利はゆっくり組むことにある。持久を整えて、日月を空費させるべきです」。袁紹は従わなかった。陣営を連ねて次第に官渡に迫った。許攸が進み出て言った。「曹操は兵が少なく、全軍を挙げて我々を防いでいる。許の守りは必ず手薄です。軽騎を分けて夜通し駆けて襲えば、許が落ちて曹操は捕らえられる。もし崩れなくても、首尾に奔走させられます。破るのは確実です」。袁紹はまた用いられなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』覇図紹従わず、遂に操を官渡に攻む。紹、自ら兵を引きて黎陽に至る。沮授、行くに臨み、其の資財を散じ、宗族を会して以て之に与えて曰く「勢い在れば威、加わらざる無く、勢い亡ぶれば則ち其の身を保たず。哀しいかな」と。其の弟宗曰く「曹操の士馬は敵せず。君、何ぞ懼れんや」と。授曰く「曹兗州の明略を以てし、又た天子を挟みて以て資と為す。我、伯珪に克つと雖も、衆は実に疲弊す。而して主は驕り将は汰る。軍の破敗は此の挙に在るなり。揚雄に言える有り『六国嗤嗤として、嬴の為に姫を弱くす』と。殆ど今の謂いか」と。河を渡るに及び、舟に臨みて嘆じて曰く「上は其の志に盈ち、下は其の功を務む。悠悠たる黄河、吾将に済らんとするか」と。
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『長短経』覇図曹公、官渡に軍す。紹、時に衆を悉くして南す。田豊、紹に説きて曰く「曹公は善く兵を用い、変化方無し。衆は少なしと雖も、未だ軽んず可からず。久しきを以て之を持するに如かず。将軍は山河の固きに拠り、四州の衆を擁す。外は英雄を結び、内は農戦を修む。然る後に其の精鋭を簡び、分かちて奇兵と為し、虚に乗じて迭々出で、以て河南を擾し、右を救わば則ち其の左を撃ち、左を救わば則ち其の右を撃つ。敵をして奔命に疲れしめ、人、業に安んずるを得ざらしむ。我労せずして彼已に困す。三年に及ばずして、坐して克つ可きなり。今、廟算の策を釈てて、成敗を一戦に決す。若し志の如くならずんば、悔ゆとも及ぶ無きなり」と。
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『長短経』覇図紹、孔伷等と同じく義に起こり、襲いて韓馥の冀州を奪い、河北に拠る。精卒十万、騎万匹を練り、進みて曹操を許に攻めんと欲す。沮授、進みて説きて曰く「近ごろ公孫を討ち、師徒年を歴たり。百姓疲弊し、賦役方に殷んなり。此れ国の深憂なり。宜しく先ず捷を天子に献じ、農を務め民を逸せしむべし。若し通ずるを得ずんば、乃ち曹操の我が王命を隔つるを表せ。然る後に進みて黎陽に屯し、漸く河南を営み、益々舟船を作り、器械を繕治し、精騎を分遣して、其の辺鄙を抄し、彼をして安きを得ざらしめ、我は其の逸を取る。此くの如くんば、坐して定む可きなり」と。
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『長短経』覇図会々攸の家、法を犯す。審配、之を収繋す。攸、志を得ず、遂に曹公に奔る。而して操に説きて淳于瓊を襲取せしむ。瓊、時に軍を督し、烏巣に屯在す。紹の軍を去ること四十里。操、自ら将いて急に之を撃つ。時に張郃、紹に説きて曰く「曹公の兵は精なり。往かば必ず瓊を破らん。瓊破れなば、則ち将軍の事去らん。宜しく兵を引きて之を救うべし」と。郭図曰く「郃の計は非なり。其の本営を攻むるに如かず。勢い必ず還らん。此れ救わずして自ら解くるを為すなり」と。郃曰く「曹公の営は固し。之を攻むるも必ず抜けざらん。若し瓊等禽にせられなば、吾が属、尽く虜と為らん」と。紹、但だ軽騎を遣わして瓊を救い、而して重兵を以て操の営を攻むるも、下す能わず。曹公、瓊を破り、其の積聚を焚く。紹の軍、潰散奔北す。曹公、遂に紹を破り、乃ち天下を威震するなり。〉
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『長短経』覇図郭図・審配曰く「兵書の法、十なれば囲み五なれば攻め、敵すれば則ち能く戦う。今、明公の神武を以て、河朔の強衆を連ねて以て曹操を伐たば、其の勢い譬えば手を覆すが如し。今、時に取らずんば、後、之を図り難し」と。授曰く「蓋し聞く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂い、衆を恃み強きに憑る、之を驕兵と謂う。兵の義なるは敵無く、驕る者は先ず敗る、と。曹操は天子を奉定し、宮を許都に建つ。今、兵を挙げて相い向かうは、義に於ては則ち違う。且つ廟勝の策は、強弱に在らず。曹操は法令既に行われ、士卒精練す。公孫瓚の坐して囲みを受くる者に非ざるなり。今、万安の術を棄てて、無名の師を興す。竊かに公の為に之を懼る」と。
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『長短経』覇図図曰く「武王、紂を伐つも、不義と為さず。況んや兵を曹操に加えて無名と云わんや。且つ公の師徒は精鋭にして、将士は奮わんことを思う。而るに時に及びて早く大業を定めざるは、所謂『天の与うるを取らざれば、反って其の咎を受く』なり。此れ越の覇たる所以、呉の亡ぶる所以なり。監軍の計は牢を持するに在りて、時を見、機の変を知るに非ざるなり」と。紹、遂に沮授の計を用いず。