長短経 / 覇図
紹與孔伷等同起義、襲奪韓馥兾州、據河北。練精卒十萬、騎萬匹、欲進攻曹操于許。沮授進説曰、「近討公孫、師徒歴年、百姓疲弊、賦役方殷、此國之深憂也。冝先獻㨗天子、務農逸民、若不得通、乃表曹操隔我王命。然後進屯黎陽、漸營河南、益作舟舩繕治器械、分遣精騎、抄其邉鄙、令彼不得安、我取其逸。如此、可坐定也。」
新字:紹与孔伷等同起義、襲奪韓馥兾州、拠河北。練精卒十万、騎万匹、欲進攻曹操于許。沮授進説曰、「近討公孫、師徒歴年、百姓疲弊、賦役方殷、此国之深憂也。冝先献捷天子、務農逸民、若不得通、乃表曹操隔我王命。然後進屯黎陽、漸営河南、益作舟舩繕治器械、分遣精騎、抄其邉鄙、令彼不得安、我取其逸。如此、可坐定也。」
書き下し
紹、孔伷等と同じく義に起こり、襲いて韓馥の冀州を奪い、河北に拠る。精卒十万、騎万匹を練り、進みて曹操を許に攻めんと欲す。沮授、進みて説きて曰く「近ごろ公孫を討ち、師徒年を歴たり。百姓疲弊し、賦役方に殷んなり。此れ国の深憂なり。宜しく先ず捷を天子に献じ、農を務め民を逸せしむべし。若し通ずるを得ずんば、乃ち曹操の我が王命を隔つるを表せ。然る後に進みて黎陽に屯し、漸く河南を営み、益々舟船を作り、器械を繕治し、精騎を分遣して、其の辺鄙を抄し、彼をして安きを得ざらしめ、我は其の逸を取る。此くの如くんば、坐して定む可きなり」と。
現代語訳
袁紹は孔伷らとともに義兵を挙げ、襲って韓馥の冀州を奪い、河北に拠った。精兵十万と騎馬一万を鍛え、進んで曹操を許に攻めようとした。沮授が進み出て説いた。「近ごろ公孫瓚を討って、軍は何年もかかりました。民は疲れ果て、賦役はいま盛んです。これは国の深い憂いです。まず勝利を天子に報告し、農事に努めて民を休ませるべきです。もし取り次がれなければ、曹操が我々と王命のあいだを隔てていると上表しなさい。そのうえで進んで黎陽に駐屯し、徐々に河南を経営し、船を増やし武具を整え、精鋭の騎兵を分けて派遣して辺境を荒らし、相手を落ち着かせず、我々は安楽を取る。そうすれば座ったまま定められます」。
解説
沮授の策は時間を味方につけるものです。まず民を休ませ、名分を整え、少しずつ前進し、相手を落ち着かせない。座ったまま定まる、という言い方に自信が表れています。決戦を避けて、体力差を広げ続ける。兵力で勝っている側こそ、この戦い方ができる。急ぐ理由がないのに急ぐのが、優勢な側の典型的な失敗です。疲れている自軍を休ませることが、最初の一手に置かれているのも見どころです。
この章句が説くこと
覇図沮授袁紹持久民を休ませる名分
関連する章句
-
『長短経』覇図紹、果たして曹公の敗る所と為る。紹、進みて武陽を保ち、操と相い持す。沮授、又た説きて曰く「北兵は衆しと雖も、果勁は南に及ばず。南の穀は虚少なるも、財貨は北に及ばず。南の利は急戦に在り、北の利は緩搏に在り。宜しく持久を修め、曠しくするに日月を以てすべし」と。紹従わず。連営して漸く官渡に逼る。許攸、進みて曰く「曹操は兵少なくして、師を悉くして我を拒ぐ。許下の余守、勢い必ず虚弱ならん。若し軽騎を分遣し、星行して襲わば、許抜けて、則ち操は擒を成さん。如し其れ未だ潰えずんば、首尾をして奔命せしむ可し。之を破ること必せん」と。紹、又た用うる能わず。
-
『長短経』覇図曹公、官渡に軍す。紹、時に衆を悉くして南す。田豊、紹に説きて曰く「曹公は善く兵を用い、変化方無し。衆は少なしと雖も、未だ軽んず可からず。久しきを以て之を持するに如かず。将軍は山河の固きに拠り、四州の衆を擁す。外は英雄を結び、内は農戦を修む。然る後に其の精鋭を簡び、分かちて奇兵と為し、虚に乗じて迭々出で、以て河南を擾し、右を救わば則ち其の左を撃ち、左を救わば則ち其の右を撃つ。敵をして奔命に疲れしめ、人、業に安んずるを得ざらしむ。我労せずして彼已に困す。三年に及ばずして、坐して克つ可きなり。今、廟算の策を釈てて、成敗を一戦に決す。若し志の如くならずんば、悔ゆとも及ぶ無きなり」と。
-
『長短経』覇図郭図・審配曰く「兵書の法、十なれば囲み五なれば攻め、敵すれば則ち能く戦う。今、明公の神武を以て、河朔の強衆を連ねて以て曹操を伐たば、其の勢い譬えば手を覆すが如し。今、時に取らずんば、後、之を図り難し」と。授曰く「蓋し聞く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂い、衆を恃み強きに憑る、之を驕兵と謂う。兵の義なるは敵無く、驕る者は先ず敗る、と。曹操は天子を奉定し、宮を許都に建つ。今、兵を挙げて相い向かうは、義に於ては則ち違う。且つ廟勝の策は、強弱に在らず。曹操は法令既に行われ、士卒精練す。公孫瓚の坐して囲みを受くる者に非ざるなり。今、万安の術を棄てて、無名の師を興す。竊かに公の為に之を懼る」と。
-
『長短経』覇図紹従わず、遂に操を官渡に攻む。紹、自ら兵を引きて黎陽に至る。沮授、行くに臨み、其の資財を散じ、宗族を会して以て之に与えて曰く「勢い在れば威、加わらざる無く、勢い亡ぶれば則ち其の身を保たず。哀しいかな」と。其の弟宗曰く「曹操の士馬は敵せず。君、何ぞ懼れんや」と。授曰く「曹兗州の明略を以てし、又た天子を挟みて以て資と為す。我、伯珪に克つと雖も、衆は実に疲弊す。而して主は驕り将は汰る。軍の破敗は此の挙に在るなり。揚雄に言える有り『六国嗤嗤として、嬴の為に姫を弱くす』と。殆ど今の謂いか」と。河を渡るに及び、舟に臨みて嘆じて曰く「上は其の志に盈ち、下は其の功を務む。悠悠たる黄河、吾将に済らんとするか」と。
-
『長短経』覇図太祖、紹の子譚・尚を黎陽に討つ。尚と熙と遼東に奔る。太守公孫康、尚・熙を斬りて其の首を送る。遂に河北を平らぐ。〈初め、太祖、譚・尚を黎陽に討ち、連戦して数しば克つ。諸将、勝ちに乗じて之を攻めんと欲す。郭嘉曰く「袁紹、此の二子を愛し、適に立つる莫きなり。郭図・馮紀、之が謀臣と為り、定めて交々其の間を闘わしめ、還りて相い離れしめん。之を急にすれば則ち相い持し、之を緩くすれば而ち後に争心生ず。南のかた荊州に向かいて劉表を征し、以て其の変を待つに如かず。変成りて後に之を撃たば、一挙にして定む可きなり」と。太祖曰く「善し」と。
-
『長短経』覇図図曰く「武王、紂を伐つも、不義と為さず。況んや兵を曹操に加えて無名と云わんや。且つ公の師徒は精鋭にして、将士は奮わんことを思う。而るに時に及びて早く大業を定めざるは、所謂『天の与うるを取らざれば、反って其の咎を受く』なり。此れ越の覇たる所以、呉の亡ぶる所以なり。監軍の計は牢を持するに在りて、時を見、機の変を知るに非ざるなり」と。紹、遂に沮授の計を用いず。