長短経 / 覇図
末孫靈帝用奄人曹節等、矯制誅太傅陳蕃、李膺、其黨人皆禁錮。中平九年、黄巾賊起。〔鉅鹿張角自稱「大賢良師」、奉事黄老畜養子弟、連結郡國、期三月五日内外俱起。唐周告之、角便起、著黄巾為標幟也。〕靈帝崩、太子辯即位。董卓入朝、因廢帝為𢎞農王、而立獻帝、李傕逼帝東遷、曹操遷帝都許、操薨、帝遜位於曹丕。魏太祖武皇帝、沛國譙人也。姓曹、諱操、字孟徳。靈帝時為典軍校尉。
新字:末孫霊帝用奄人曹節等、矯制誅太傅陳蕃、李膺、其党人皆禁錮。中平九年、黄巾賊起。〔鉅鹿張角自称「大賢良師」、奉事黄老畜養子弟、連結郡国、期三月五日内外倶起。唐周告之、角便起、著黄巾為標幟也。〕霊帝崩、太子弁即位。董卓入朝、因廃帝為弘農王、而立献帝、李傕逼帝東遷、曹操遷帝都許、操薨、帝遜位於曹丕。魏太祖武皇帝、沛国譙人也。姓曹、諱操、字孟徳。霊帝時為典軍校尉。
書き下し
末孫の霊帝、奄人曹節等を用い、制を矯めて太傅陳蕃・李膺を誅す。其の党人、皆な禁錮せらる。中平九年、黄巾の賊起こる。〈鉅鹿の張角、自ら大賢良師と称し、黄老を奉事し、子弟を畜養し、郡国を連結し、三月五日に内外倶に起こらんと期す。唐周、之を告ぐ。角、便ち起こり、黄巾を著けて標幟と為すなり。〉霊帝崩じ、太子弁即位す。董卓入朝し、因りて帝を廃して弘農王と為し、而して献帝を立つ。李傕、帝を逼りて東遷せしむ。曹操、帝を遷して許に都す。操薨じ、帝、位を曹丕に遜る。魏の太祖武皇帝は、沛国譙の人なり。姓は曹、諱は操、字は孟徳。霊帝の時、典軍校尉と為る。
現代語訳
末の子孫の霊帝は宦官の曹節らを用い、詔を偽って太傅の陳蕃と李膺を誅した。その一派はみな官途を閉ざされた。中平九年、黄巾の賊が起こった。〈鉅鹿の張角は自ら大賢良師と称し、黄老を奉じ、弟子を養い、諸郡を結びつけ、三月五日に内外一斉に蜂起することを約した。唐周がこれを密告した。張角はすぐ蜂起し、黄色い頭巾を目印とした。〉霊帝が崩じて太子の弁が即位した。董卓が入朝し、帝を廃して弘農王とし、献帝を立てた。李傕が帝を脅して東へ遷らせた。曹操は帝を遷して許に都した。曹操が没し、帝は位を曹丕に譲った。魏の太祖武皇帝は沛国譙の人である。姓は曹、諱は操、字は孟徳。霊帝のとき典軍校尉となった。
解説
この章句が説くこと
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