長短経 / 覇図
十二月、漢王拒楚於成臯、饗師欲復戰。郎中鄭忠説曰、「王髙壘深壁、勿與戰、使劉賈佐彭越入楚地、焚其積聚、破楚師必矣。」項羽乃東擊彭越、留曹無咎守成臯。時漢數困滎陽、成臯、計欲捐成臯以東、屯鞏洛以距楚、用酈生計、復守成臯。
新字:十二月、漢王拒楚於成皋、饗師欲復戦。郎中鄭忠説曰、「王高塁深壁、勿与戦、使劉賈佐彭越入楚地、焚其積聚、破楚師必矣。」項羽乃東撃彭越、留曹無咎守成皋。時漢数困滎陽、成皋、計欲捐成皋以東、屯鞏洛以距楚、用酈生計、復守成皋。
書き下し
十二月、漢王、楚を成皋に拒ぎ、師を饗して復た戦わんと欲す。郎中の鄭忠、説きて曰く「王、塁を高くし壁を深くし、与に戦う勿かれ。劉賈をして彭越を佐けて楚地に入り、其の積聚を焚かしめば、楚師を破ること必せん」と。項羽、乃ち東のかた彭越を撃ち、曹無咎を留めて成皋を守らしむ。時に漢、数しば滎陽・成皋に困しみ、計りて成皋以東を捐て、鞏洛に屯して以て楚を距がんと欲す。酈生の計を用い、復た成皋を守る。
現代語訳
十二月、漢王は成皋で楚を防ぎ、兵をねぎらってまた戦おうとした。郎中の鄭忠が説いた。「王は塁を高くし壁を深くして、戦わないこと。劉賈に彭越を助けさせて楚の地に入り、その蓄えを焼かせれば、楚の軍を破るのは確実です」。項羽はそこで東へ向かって彭越を撃ち、曹咎を残して成皋を守らせた。当時、漢は滎陽と成皋でたびたび苦しみ、成皋から東を捨てて鞏と洛陽に駐屯して楚を防ごうと考えていた。酈食其の計を用いて、また成皋を守った。
解説
正面では戦わず、後方の蓄えを焼く。鄭忠の策は、敵の強い場所を避けて弱い場所を叩く典型です。項羽はそのたびに東へ引き返さざるを得ず、主戦場を離れることになりました。強い相手に正面から向かわず、相手が守らなければならない場所を増やす。前の轅生の策と同じ発想が、別の形で繰り返されています。正面の勝負を降りることが、実は最も効く一手になる場面があります。
この章句が説くこと
覇図鄭忠彭越兵站焚く正面回避
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