長短経 / 覇図
信聞知之、大喜、乃進軍擊趙、破之。趙之破也、韓信令軍中無殺廣武君、有能生得者、購千金。於是有縳廣武君而致戱下者。信乃觧其縛師事之。問曰、「僕欲北攻燕、南伐齊、何若而有功?」廣武君辭謝曰、「臣聞、敗軍之将、不可與言勇、亡國之大夫、不可與圖存。令臣敗亡之虜、何足以權大事乎!」信曰、「僕聞、百里奚居虞而虞亡、在秦而秦伯非愚於虞而智於秦、用聴與不用聴也。試令成安君聴足下計、若信者亦為擒矣。僕委心歸計、願足下勿辭。」
新字:信聞知之、大喜、乃進軍撃趙、破之。趙之破也、韓信令軍中無殺広武君、有能生得者、購千金。於是有縳広武君而致戱下者。信乃觧其縛師事之。問曰、「僕欲北攻燕、南伐斉、何若而有功?」広武君辞謝曰、「臣聞、敗軍之将、不可与言勇、亡国之大夫、不可与図存。令臣敗亡之虜、何足以権大事乎!」信曰、「僕聞、百里奚居虞而虞亡、在秦而秦伯非愚於虞而智於秦、用聴与不用聴也。試令成安君聴足下計、若信者亦為擒矣。僕委心帰計、願足下勿辞。」
書き下し
信、之を聞き知り、大いに喜び、乃ち軍を進めて趙を撃ち、之を破る。趙の破るるや、韓信、軍中に令して広武君を殺す無からしめ、能く生け得る者有らば、千金を購わんとす。是に於て広武君を縛りて戯下に致す者有り。信乃ち其の縛を解き、師として之に事う。問いて曰く「僕、北のかた燕を攻め、南のかた斉を伐たんと欲す。何若くして功有らん」と。広武君、辞謝して曰く「臣聞く、敗軍の将は、与に勇を言う可からず、亡国の大夫は、与に存を図る可からず、と。今、臣は敗亡の虜なり。何ぞ以て大事に権るに足らんや」と。信曰く「僕聞く、百里奚は虞に居りて虞亡び、秦に在りて秦伯たり、と。虞に愚にして秦に智なるに非ず。聴くを用うると聴くを用いざるとなり。試みに成安君をして足下の計を聴かしめば、信の若き者も亦た擒と為らん。僕、心を委ねて計に帰す。願わくは足下、辞する勿かれ」と。
現代語訳
韓信はこれを聞き知って大いに喜び、軍を進めて趙を撃ち破った。趙が破れると、韓信は軍中に広武君を殺すなと命じ、生け捕りにした者には千金を出すとした。そこで広武君を縛って旗の下に連れてきた者がいた。韓信はその縄を解き、師として仕えた。尋ねた。「私は北の燕を攻め、南の斉を伐ちたい。どうすれば功が上がるか」。広武君は辞退して言った。「臣が聞くところでは、敗軍の将とは勇を語れず、亡国の大夫とは存続を図れない、と。いま私は敗れて滅びた捕虜です。どうして大事を計るに足りましょう」。韓信は言った。「私が聞くところでは、百里奚は虞にいて虞が滅び、秦にいて秦は覇者になった。虞で愚かで秦で賢かったのではない。言うことを聞いたか聞かなかったかの違いです。ためしに成安君があなたの計を聴いていたら、私のような者も捕虜になっていた。私は心を委ねて計を仰ぎます。どうか辞退なさらないでください」。
解説

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